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歴史くらぶ イベントカレンダー 7月
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戦役・事変
蘇我・物部氏の決戦-587年7月、崇仏派の大臣(おおおみ)・蘇我馬子を総帥とする大和朝廷軍と、排仏派の大連(おおむらじ)・物部守屋の軍勢が激突。馬子のもとへは泊瀬部皇子(はつせべのみこ、後の崇峻天皇)はじめ敏達天皇の子の竹田皇子・難波皇子・春日皇子、用明天皇の子の厩戸皇子(聖徳太子)などの諸皇子、紀氏(きのし)、巨勢氏(こせし)、葛城氏、阿倍氏、春日氏らの諸豪族がついた。これに対し、守屋は押坂彦人皇子を擁して対峙したが、孤立感を深めていた。戦況は圧倒的に兵力に勝る、馬子が率いる大和朝廷軍が有利で、最終的に彦人皇子の舎人、とみのいちいが守屋を殺害し、勝敗は決した。この結果、軍事力で名を残した古代豪族の名門、物部氏は滅んだ。

壬申の乱-大海人皇子と大友皇子(叔父と甥)が皇位継承をめぐり激突した古代史上最大の内乱。672年6月20日、大海人皇子が岐阜県安八郡で決起。近江京めざして攻め入り、7月23日、大津宮が陥落。勝利した大海人皇子は即位し天武天皇となった。戦端が開かれたのは岐阜県・関ケ原一帯だが、決戦場は現在の滋賀県大津市一帯。


保元の乱-1156年(保元元年)7月、鳥羽法皇崩御後、後白河天皇と源義朝・平清盛の連合軍と、崇徳上皇と源為義(義朝の父)・為朝(義朝の弟)・平忠正(清盛の叔父)の連合軍が対立、戦闘状態となった。これに摂関家も関白・藤原忠通は後白河に、左大臣・頼長(忠通の弟)は崇徳に接近し、朝廷も二派に分裂した。先手を取った後白河側が勝利。惨敗した崇徳側は、崇徳上皇が讃岐に配流。頼長は流れ矢に当たって死亡、源為義、平忠正は斬罪、源為朝は伊豆大島に流罪となった。


弘安の役(元寇)-第二次蒙古襲来ともいう。弘安4年(1281年)7月、元軍は総勢14万で襲来したが、総攻撃の直前、台風に直面し、壊滅的打撃を受けた。元の日本征服計画が失敗したのは、元軍が海戦に不慣れだったこと、出撃基地となった高麗に様々な形で抵抗されたこと、日本側の武士が奮戦したこと。元軍が暴風雨に遭遇したこと-などが原因。


加賀一向一揆-文明6年(1474年)7月、加賀半国守護、富樫幸千代と加賀本願寺門徒(僧侶・武士・農民)との間に一向一揆が起こった。そして、加賀国で起きた一向一揆を皮切りに、一向一揆は北陸・近畿・東海などの社会・経済的先進地帯や中間地帯に頻発した。しかし、相手の戦国大名を倒し、一国の政権を握ったのは加賀国だけだった。それは、織田信長によって一揆が打倒されるまで続いた。


薩英戦争-文久3年(1863年)7月、前年、薩摩藩士が横浜付近(現在の横浜市鶴見区生麦1丁目)で起こした生麦事件(1862年)の処理をめぐって、英国に対し同藩が無視し続けたため、報償金と犯人の死刑を要求、英国が実力行使に出た。これが薩英戦争の経緯だ。実力行使を決意した英国は7月2日未明、薩摩藩汽船三隻を拿捕した。昼、薩摩藩砲台から攻撃が開始された。薩摩の軍事力を甘くみていた英国はこの砲撃にあわて、醜態をみせる場面もあった。だが、戦列を整えた英艦隊は、すべての薩摩藩砲台を破壊し、市北部を火の海とした。死者は英国側13名、薩摩側5名だったが、薩摩にとって被害は大きく、西洋の実力を認識し一大転機を迎えることになった。


禁門の変(蛤御門の変)-1864年7月、2000の藩兵で京都を包囲した長州軍は、無実を主張する訴状を差し出すが拒絶される。そこで長州藩は、公武合体派排除、京都奪還の決行に踏み切った。御所に押し寄せた長州軍は、会津藩の警護する蛤御門へと殺到。御所内に突入しかけたが、薩摩軍に背後を襲われ、敗北を喫した。この戦いで長州藩は久坂玄瑞らが亡くなった。
■戦国祭り 
(開催日の一部で固定していない、例年変わるケースがあります。お出かけの際は、念のため事前にご確認を!)
祇園祭・7/1~7/31(京都市・八坂神社)-京都八坂神社の祭礼、町衆による祇園御霊会。京都・祇園祭というと、7/16の宵山、7/17の山鉾巡行がよく知られているが、正確には7/1の長刀鉾町お千度から始まり、7/31の疫神社夏越祭まで1カ月にわたって続く祭り。


三島水軍鶴姫まつり・7/19(愛媛県・大三島町)-鶴姫は大山祇神社の大宮司、大祝安用の娘。大三島の水軍は伊予河野氏に属していたため、大内氏から三度にわたって攻撃を受けた。いずれも撃破するが、二度目の1541年(天文10年)から鶴姫も討ち死にした兄に代わって陣代として出陣。三度目の合戦の際は、恋人、越智安成を敵に討たれ、悲嘆にくれて海に身を投げたと伝えられている。このことから、鶴姫は「瀬戸内のジャンヌ・ダルク」と呼ばれている。鶴姫行列ほか当時の三島水軍の栄耀を彷彿とさせる催しが行われる。


相馬野馬追(そうまのまおい)・7/23~7/25(福島県)-一千余年の昔、相馬市の始祖、平将門が下総国(現在の千葉県流山市付近)に野馬を放ち、敵兵に見立てて軍事訓練をしたのが、その起こりと伝えられている。甲冑に身を固めた500余騎の騎馬武者が腰に太刀、背に旗指し物をつけて疾走する豪華絢爛で、勇壮な戦国絵巻を繰り広げる。本来は国の重要無形民俗文化財に指定されている神事。旧相馬藩領(現在の福島県浜通り北部)で、東北地方の夏祭りの先駆けと見なされ、東北六大祭りの一つと紹介される場合もある。


二十三夜・7/23(大分県大分市)-加藤清正公の命日に法心寺で行われる読経・太鼓・お参り、別名「千灯明祭」。


九鬼水軍サッパ競漕・7/24(三重県鳥羽市)-九鬼水軍が使用していたとされる軍船、小早船(サッパ)を用いて、櫓こぎ、櫂こぎで行われる競漕。参加者は工夫を凝らした衣装で出場する。場所は鳥羽市小浜漁協前港湾内。


幸田彦左まつり・第4土曜(愛知県額田郡幸田町)-天下のご意見番「大久保彦左衛門」の生誕の地で、彦左衛門を偲んで行われる仮装行列ほかの催し。仮装行列には各コミュニティや町内の企業の人々が、彦左衛門や一心太助らに扮し、幸田駅前を練り歩く。彦左衛門は三河国額田郡に2000石の領地を持つ直参旗本で、そのうち約1000石が幸田町にあった。


種子島鉄砲まつり・7/26(鹿児島県西之表市)-日本の鉄砲伝来の地、本家本元での火縄銃の試射はじめ、郷土芸能、南蛮行列などが行われる。


清正公まつり・第4日曜(前日の土曜に前夜祭)(熊本県熊本市)-昭和57年、長年途絶えていた神幸行列を復活させ、名称・開催時期を現在のように改めた。清正公(せいしょこ)まつりは、加藤清正公を偲び熊本の夏の訪れを知らせる祭り。最大の見どころは“宮出し”“宮入れ”や街中などでのみこしの競演。


姫路お城まつり・7/29(兵庫県姫路市)-歴史パレードで、姫路城にまつわる物語を演出する。


深谷祭り・7月最終週(埼玉県深谷市)-旧中仙道(現在の深谷駅北口)周辺で開催されていた「深谷八坂祭」と、かつて多くの市民が参加できる市民まつりとして開催されていた「深谷上杉まつり」が融合。さらに多くの市民の参加と発展、継承を願い、市民主導で行われている深谷で一番盛大な夏まつり。十数町会による昼のみこしパレード、YOSAKOIソーラン踊り流し、盗夜のみこしパレード、さんてこ囃子(通称喧嘩囃子)をバックにした11基の山車、屋台の勇壮な叩き合いなどが祭りの見どころ。
■偉人・賢人の命日
・森 鴎外(大正11年7/9・1922年7/9)満60歳
・佐久間象山(元治元年7/11・1864年8/12)満53歳
・北条政子(嘉禄元年7/11・1225年8/16)満68歳
・角倉了以(慶長19年7/12・1614年8/17)満60歳
・島津斉彬(安政5年7/16・1858年8/24)満49歳
・芳春院 (元和3年7/16・1617年8/17)満70歳
・細川ガラシャ(慶長5年7/17・1600年8/25)満37歳
・久坂玄瑞 (元治元年7/19・1864年8/20)満24歳
・皇極天皇(斉明天皇7年7/24・661年8/24)満67歳
・芥川龍之介(昭和2年7/24・1927年7/24)満35歳
・淀屋常安 (元和8年7/28・1622年9/3)満62歳?
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歴史のヒロインや歴史群像、豪商列伝を幅広く、独自の目線で書き上げています。