まつ・・・加賀百万石を築く礎として力のあった藩祖・前田利家の妻

 まつ(のちの芳春院)は加賀百万石の祖・前田利家の妻。「ねね」と同様、士民階級出の女性で、現実にねねとまつは幼い頃、隣同士だったようだ。そして、それぞれやはり士民階級出の秀吉、利家に嫁ぎ、亭主たちの死後起こった天下分け目の関ヶ原で、秀頼を捨てて家康側についた。歴史を変えた関ケ原で、どちらにつくかという大事なことを、味噌や醤油を貸し借りあった無二の親友は、相談して決めた気配がある。

 まつの生没年1547~1617。尾張(愛知県)に生まれ、父親は不明。幼い頃、親類の荒子城主・前田利昌の養女となり、数え12歳で兄妹のように育った利家(城主の4男)と結婚、前田家の繁栄を支えた。利家との間に二男九女をもうけた。戦国時代の女性は比較的、多産だが、それでも11人の実子がいる女性は稀有だ。1599年、利家の没後、芳春院と号した。

まつ=芳春院は腹の座った女性で、秀吉、そして夫・利家の死後、1600年(慶長5年)家康が前田家を滅ぼして天下制覇の足がかりにしようとしているのを知り、自ら人質となって江戸へ行き、14年間江戸城で過ごし、前田家の危機を救った。

このとき前田家を継いでいた長子、利長に、家康から挑発的な難題がふりかかっても「何事もお家第一。そのためには迷わず母を捨てなさい!」と言い置いて江戸へ向かったという。これにはまだ後日譚がある。まつの見返りに徳川方は二代将軍秀忠の次女おたまを前田家に出し、これで徳川家と前田家はがっちりと握手を交わすことになるのだ。

 まつは加賀百万石を築く礎として力を発揮した。彼女が結婚したときの利家はせいぜい二千石。利家自身そんな大きな身代になる能力があったとは思えない。運のよさと、秀吉から頼まれたことをきっちりやる律儀さ、実直さで身代を大きくしたと思われる。

 それだけに、人間的なスケールは利家よりまつの方が大きい。秀吉に加賀をもらって城主になったとき、隣の富山の佐々成政と戦いになる。大名に成りたての利家は、秀吉が長浜で募集したように人を集めようとするが、利家がケチでカネを出し惜しむから、なかなか人が集まらない。見かねたまつが蔵から金銀の袋を持ち出して、利家の前に袋を投げ出したという。これに奮起した利家が佐々成政を破って凱旋する。

 まつが賢夫人と評されるのが賤ヶ嶽の合戦の柴田勝家と羽柴秀吉への対応だ。秀吉が勝家を破ったこの合戦は夫・利家にとってはつらい闘いだった。秀吉は刎頚(ふんけい)の友。勝家は「おやじどの」と敬愛する先輩で、戦国の常として双方に娘を人質として(秀吉へは養女として)差し出してあった。利家は勝家に加担すべく近江まで出兵して布陣するが、戦意なく潮時をみて軍を引き揚げる。昇竜の勢いの秀吉に全面敵対する決断がつかなかったのだ。

資料によると、越前府中の城に入った利家のもとに立ち寄った勝家は、利家の心中を察し、湯漬けをふるまわれ、進呈された替え馬で北の庄(福井)へ落ちていく。その後へ秀吉軍が現われる。秀吉は城門を開けさせると、ずかずか入ってきて、まず台所のまつを訪ねる。聡明な彼女は、すかさず長子、利長に「筑前殿(秀吉)の先手を受け持たせていただくように」という。すると、秀吉は「亭主殿(利家)はあとからゆるゆると来られよ。とりあえずせがれどのを借りる」と応じ、まつ手作りの湯漬けをサラサラかき込むと、慌しく北の庄へ向かって進撃していく-という具合だ。まつは刎頚の友でありながら、一時的とはいえ敵対した夫(利家)と秀吉のきまずさを、さりげなく救ったのだ。

(参考資料)対談集 永井路子vs司馬遼太郎、酒井美意子「加賀百万石物語」
      戸部新十郎「戦国武将の本領」 

松尾多勢子・・・10人の子供を産み育て上げた後、討幕運動で活躍した女性

 松尾多勢子は幕末、討幕運動で活躍した女性活動家だ。多勢子は6男4女、10人の子供を産み、旧家の大家族の主婦として家事を取り仕切り、主婦の座を嫁に渡した後、上洛し討幕活動に参加。渉外・連絡・スパイ活動などをするかたわら、20歳前後の若者の多い活動家たちを、物心両面で助けた。また、岩倉具視の信任を得て、維新後は新政府の要人となった岩倉に招かれ、岩倉家の家政を取り仕切り、岩倉家の女参事と呼ばれた。この当時としては異例の生涯を送った女性だ。多勢子の生没年は1810(文化8)~1894年(明治27年)。

 松尾多勢子は信濃国下伊那郡山本村(現在の長野県飯田市)の庄屋、竹村常盈の長女として生まれた。12歳のとき、父の実家、北原家に預けられ、従兄の北原因信から読み書きと和歌を学び、北原因信の妻から家事と礼儀作法を学んだ。19歳のとき、伊那谷伴野村の豪農、松尾家の長男、左次右衛門と結婚。6男4女をもうけた。主婦として30余年を過ごし、その間に和歌を学び、とりわけ飯田の歌人・国学者岩崎長世の説く尊王攘夷論に深く感化された。また、平田篤胤の養嗣子、銕胤のもとに入門し学問を再開した。

 多勢子の人生が大きく変わるのがこれからだ。それも普通なら、もうそろそろ人生も“たそがれ”と思われる52歳のとき、1862年(文久2年)彼女は夫の了解を得て、意を決して上洛したのだ。まだ自分にはやりたいこと、やり残したことがあるとの思いからだったか。彼女は“信州の山奥から出てきた歌詠みおばさん”という触れ込みで諸卿の門に出入りし、宮中の女官と親交を結ぶようになった。

長州藩の久坂玄瑞、品川弥二郎、藤本鉄石らとも交わり、志士を堂上家に紹介したり、両者の連絡にあたったりした。老女のため、警戒されることも少なく、様々な頼みごとを持ち前の義侠心で引き受けその実現に奔走、農民や商人などに変装し活動を続けたのだ。

 多勢子の人生をさらにステップアップさせたのは、岩倉具視の信任を得たことだ。これは岩倉が奸物として志士に命を狙われたとき、彼女が志士たちに岩倉が奸物でないことを説いて危険を免れさせたからだという。彼女は快活で弁舌に長じ、世話好きで資力も豊かだったから、志士でその世話になった者が多かった。

多勢子は1863年(文久3年)、等持院の足利三代木像梟首事件に関係し、また天誅組の志士を保護して幕吏に疑われ、捕らわれの身となる恐れもあったが、長州藩邸に匿われて事無きを得たこともあった。同年、国許から迎えにきた息子らとともに帰郷するが、郷里では多勢子を頼ってくる志士も多く、松尾家には常に数人が滞在していたという。

 明治維新後、多勢子は新政府の要人となった岩倉具視に招かれ、再び上洛して女中の教育や客の応対など岩倉家の家政を取り仕切ったりし、岩倉邸の女参事と呼ばれた。具視の多勢子への信頼は厚く、彼女の進言は必ず受け入れられたという。また、彼女の口入れで官途に就こうとする者も多かった。晩年は郷里に隠居して静かに余生を送り、1892年(明治25年)には皇后から白縮緬を下賜された。
 島崎藤村の『夜明け前』には松尾多勢子の名が13回も出てくる。

(参考資料)永井路子「歴史のヒロインたち」

三浦環・・・日本で初めて国際的な名声をつかんだオペラ歌手

 三浦環は日本で初めて国際的な名声をつかんだオペラ歌手だ。十八番だった、プッチーニの『蝶々夫人』の蝶々さんと重ね合わされて、国際的に有名だった。三浦環の生没年は1884(明治17)~1946年(昭和21年)。

 三浦環は東京・芝で公証人の柴田猛甫を父に、永田登波を母に生まれた。元の名は柴田環、次いで藤井環。1900年に東京音楽学校に進みピアノを滝廉太郎に師事。1903年、東京音楽学校在学中、日本人による最初のオペラ『オルフェオとエウリディーチェ』上演にエウリディーチェ役で出演した。1904年に卒業後、補助教員として東京音楽学校に勤務、その後助教授となった。この間に山田耕筰らを指導したといわれる。

1911年に帝国劇場に所属し、翌年からプリマドンナとして活躍を続けた。1913年に柴田家の養子で医師の三浦政太郎と結婚した後、夫とともに1914年にドイツに留学した。しかし、第一次世界大戦の戦火を逃れて、イギリスに移動。1915年、ロンドンのオペラハウスに日本人として初めてプリマドンナとして出演。プッチーニの『蝶々夫人』を歌った。この英国デビューの成功を受けて、1916年に渡米し、ボストンで初めて蝶々さんを演じた。好意的な批評によってその後、「蝶々夫人」やマスカーニの『あやめ』をニューヨーク、サンフランシスコ、シカゴで演ずることができた。ちなみに三浦環はメトロポリタン歌劇場に迎えられた最初の日本人歌手だ。

 三浦環はその後、ヨーロッパに戻り、ロンドンでビーチャム歌劇団と共演した。1918年、米国に戻り、『蝶々夫人』とメサジェの『お菊さん』を上演するが、後者は「蝶々さん」の焼き直しに過ぎないとして不評だった。1920年にモンテカルロ、バルセロナ、フィレンツェ、ローマ、ミラノ、ナポリの歌劇場に客演した。1922年帰国すると、長崎に留まり『蝶々夫人』とゆかりの土地を訪ね歩き、演奏会を開いた。三浦環が蝶々さんに扮した姿の銅像は、プッチーニの銅像とともに、長崎市のグラバー園に建っている。

 三浦環は欧米各国で20年間に2000回にわたり蝶々さんを演じた。ソプラノのその明澄甘美な歌声は、作曲者のプッチーニに「わが夢」と激賛されるほどだった。1935年(昭和10年)帰国し、翌年、歌舞伎座で2001回目の『蝶々夫人』演奏会を開催。以後、死ぬまで10年間は日本で演奏教育活動を行った。

 『蝶々夫人(=マダム・バタフライ)』はJ.L.ロングの原作(1895年)で、明治中期の長崎を舞台に、士族の娘お蝶とアメリカ海軍のピンカートン中尉との愛と悲劇を描いた作品だ。二人は恋をし、結婚して子供までもうける。しかし、ピンカートンは帰国することになる。彼はそのうち戻るからといって単身でアメリカへ帰ってしまう。やがて3年の月日が流れ、やっとピンカートンが長崎にやってきたが、彼の側にはアメリカで結婚したケイトが付き添っていた。ピンカートンを信じきっていたお蝶はショックを受け、このまま侮辱を受けるよりは、武士の娘として高貴な死を選ぼうといって自刃して果てる-こんなストーリーだ。

 この物語は実話を元にしているとされ、グラバー園のトーマス・グラバーと夫人の鶴さんがモデルではないかとの説もある。ただ、この種の話は当時、随分多かったようで定かではない。実際にはグラバーは帰国せず、日本で様々なビジネスに取り組み、東京・麻布で亡くなっている。

(参考資料)白石一郎「異人館」