私説 小倉百人一首 No.49 大中臣能宣朝臣

大中臣能宣朝臣

御垣守衛士の焚く火の夜は燃え
       昼は消えつつものをこそ思へ

【歌の背景】昼夜を問わず心を焦がす恋心を、衛士の焚く火にことよせて詠んだもの。上二句「御垣守衛士の焚く火」は次の「夜は燃え昼は消えつつ」の序。

【歌 意】内裏の御門を守る衛士の焚く篝火が夜は燃え、昼は消えているように、私はあなたを恋する心に夜は燃え上がり、昼は打ち沈んで消え入るようになって、夜も昼も恋し続けています。

【作者のプロフィル】大中臣氏は元来、藤原氏。神祇を司った。能宣は神祇大副頼基の子。天禄年間に神祇大副に任じられた。坂上望城・源順・紀時文・清原基輔と「後撰集」を撰した。「梨壺の五人」の一人。子の輔親、むすめの伊勢大輔も歌人として有名。正暦2年(991)71歳で没。

私説 小倉百人一首 No.50 藤原義孝

藤原義孝

君がため惜しからざりし命さへ
       長くもがなと思ひけるかな

【歌の背景】朝になって女と別れて帰ってから、女に贈った後朝(きぬぎぬ)の歌。当時は男が女の家に通って一夜を過ごし帰った後、とくに初夜の後には後朝の歌を贈るのが、習慣であり礼儀だった。

【歌 意】今まであなたに逢えるものならこの命を捨てても悔いはないとまで思い込んでいましたが、あなたへの思いを遂げた今はあなたに逢うためにできる限り長く生きたいと思います。

【作者のプロフィル】謙徳公一条摂政伊尹の三男。醍醐天皇皇子代明親王のむすめ、恵子女王の間に生まれた。少年時代から詩才に優れ、なかなかの美男であったうえに、品行方正で信心も深かった。年若くして近衛少将に進んだが、22歳の天延2年(974)天然痘にかかり急死。兄の挙周は朝、義孝は同じ日の夕方に死んだという。子の行成は能書家として有名。