豊田喜一郎 「純国産」技術で自動車産業の礎築き「TOYOTA」創業

豊田喜一郎 「純国産」技術で自動車産業の礎築き「TOYOTA」創業

 2010年、トヨタ自動車は販売台数で、長期にわたり繁栄を謳歌してきた巨大なアメリカの象徴、ゼネラル・モーターズ(GM)を抜き世界一となった。豊田喜一郎は20世紀の、いや21世紀に入ってもさらに飛躍を続ける、日本を代表する企業、トヨタ自動車の創業者だ。欧米に50年遅れて出発した日本の「純国産」自動車産業。技術も産業基盤もおぼつかない当時の状況を認識しながら、豊田喜一郎は戦前戦後の激動期、日本の自動車産業の礎を築いていった。米国フォード、GMの日本進出を横目で見ながら、喜一郎に迷いはなかったのか。今日の世界企業「TOYOTA」の姿が果たして想像できたのか。豊田喜一郎の生没年は1894(明治27)~1952年(昭和27年)。

 1933年(昭和8年)喜一郎は豊田自動織機製作所に自動車部を設立した。1923年(大正12年)の関東大震災以降、急成長した日本の自動車市場に米国のフォード、GMが相次いで進出してきていたころのことだ。そんな中、大財閥も二の足を踏んだ純国産乗用車生産の難事業。技術の蓄積が段違いのこれら米国の巨人に、彼は純国産車で挑むことを表明したのだ。そして、長期にわたる欧米視察で、自動車産業の隆盛をつぶさに見て回った。その結果、自動織機ではどこにも負けないという自負に加え、自動車産業を興すには製鉄、ガラス、ゴムなどの産業基盤の充実が不可欠という技術者の冷静な判断もあった。

 喜一郎は自動織機の開発にあたっても最終的に仕上げた。そして英国のプラット社にG型自動織機のライセンスを与え、見返りに10万ポンドを得ている。それを元手に自動車エンジンの試作に必要な鋳造や鍛造という金属加工の基礎の基礎から、経験と知識を積み上げていった。だが、自動車事業の産業基盤を整備・充実するには莫大な資金が必要だ。恐らく当時、豊田グループを切り盛りしていた豊田自動織機社長で義兄の豊田利三郎の了解のもと、準備段階から相当な資金が出ていたのだろう。だからこそ、高価なプレス機械、最新の鋳造装置などに惜しげもなく資金を投じることができた。また、二高、東大を通じての人脈が自動車事業を支えた。自動車はその国の科学技術の総合力が試される産業なのだ。

 喜一郎の持論は「技術はカネでは買えない」だ。個別の技術で優れたモノは海外から導入してもいいが、大きな技術の体系、産業のシステムは、自前で組み上げないと、決して定着しないという哲学だ。技術者・研究者を育て、関連の産業の振興も視野に入れてこそ、日本に自動車産業が根付くと考えていたのだ。1938年(昭和13年)、愛知県西加茂郡挙母(ころも)町(現在の豊田市)に、自動車専用工場が完成した。喜一郎はこのころから、必要なモノが必要な時に供給されるしくみについて「ジャスト・インタイム」という言い回しを盛んに使うようになったとされる。世界に冠たるトヨタの看板方式の哲学的な原初だ。

 独学で発明の才を磨いた父・豊田佐吉と異なり、喜一郎は旧制二高(現在の東北大)から東京帝国大の機械工学科を卒業した、当時日本屈指の機械技術者だった。豊田式自動織機発明者として教科書にも登場する喜一郎の父佐吉は一人一業を説いて、喜一郎に自動車づくりの道を歩ませた。そして喜一郎は、長男の章一郎(トヨタ自動車社長・会長)に、住宅産業への進出を勧めたといわれる。

(参考資料)日本経済新聞社「20世紀 日本の経済人 豊田喜一郎」、城山三郎「燃えるだけ燃えよ 本田宗一郎との100時間」

尾崎紅葉 明治の文豪は子規の革新性はなかったが俳壇の一方の雄

尾崎紅葉 明治の文豪は子規の革新性はなかったが俳壇の一方の雄だった

 『金色夜叉』で広く知られる尾崎紅葉は明治時代半ば、若くして文豪と仰がれた。その彼に作家とは別の顔がある。文学作品ほどには知られていないが、俳人としての顔だ。実は、彼は俳人としても一家を成す作者だった。ただ、井原西鶴崇拝の彼は、初期俳諧談林調の影響が尾を引き、同世代の正岡子規の革新性には欠けていた。しかし彼には、清新な作風の句も少なからずあり、明治俳壇の一方の雄だった。紅葉の生没年は1868(慶応3)~1903年(明治36年)。

 尾崎紅葉は江戸・芝中門前町(現在の東京都港区浜松町)で生まれた。本名は徳太郎。号は「縁山(えんざん)」「半可通人(はんかつうじん)」「十千万堂(とちまんどう)」などがある。帝国大学国文科卒中退。父は根付師の尾崎谷斎(惣蔵)、母は庸。

 徳太郎は1872年(明治5年)、4歳で母と死別し、母方の祖父母、荒木舜庵・せんのもとで育てられた。寺子屋・梅泉堂(現在の港区立御成門小学校)を経て府中学校(現在の日比谷高校)に進学。一期生で同級に幸田露伴、ほかに沢柳政太郎、狩野亨吉らがいた。だが、事情はよく分からないが、彼は中退した。その後、徳太郎は岡千仭の綏猷(かんゆう)堂で漢学、石川鴻斎の崇文館で漢詩文を学んだほか、三田英学校で英語などを学び、大学予備門入学を目指した。そして1883年(明治16年)東大予備門に入学。1885年(明治18年)、紅葉は山田美妙らと硯友社を設立し、「我楽多文庫」を発刊。『二人比丘尼色懺悔』で認められ、これが出世作となった。1890年(明治23年)、彼は学制改革により呼称が変わった帝国大学国文科を中退した。

 ただ、彼はこの前年末に大学在学中ながら読売新聞社に入社していた。これにより以後、紅葉の作品の重要な発表の舞台は読売新聞となった。『伽羅枕』(1890年)、『多情多恨』(1896年)などが同紙に掲載され、読者の間で高い人気を得た。その結果、幸田露伴と並称され、明治時代の文壇で重きを成した。このため、この時期は「紅露時代」とよばれた。紅葉は1897年(明治30年)から読売新聞に『金色夜叉』を連載開始し人気を博したが、病没で未完のままに終わった。泉鏡花、田山花袋、小栗風葉、柳川春葉、徳田秋声など優れた門下生がいる。

 冒頭にも述べた通り、紅葉には小説家ほどには知られていないが、俳人としての顔もあった。彼は、門下の小説家たちに句作りを指導し、句会を催す時には実に真剣に精進したという。俳句を作るときの観察力の訓練や、凝縮した表現法が、小説を作るうえでも大いに役立つと考えたかららしい。1895年(明治28年)、「秋声会」という俳句の会を結成し、指導したほど、俳句に熱心だった。秋声会のメンバーには泉鏡花(きょうか)、広津柳浪(りゅうろう)、川上眉山(びざん)その他小説の門弟たちがいた。

 最後に紅葉の句を紹介しておく。

 「春寒(しゅんかん)や日闌(た)けて美女の嗽(くちすす)ぐ」

 これは、彼の句の特徴の一つとされる艶麗な情緒の句だ。恐らく遊里の情景を歌ったものだろう。春は浅く、風はまだ肌寒い。早起きを怠った美女が、日もたけて起き出して嗽いでいる。

 もう一句、春の作品を紹介する。

 「鶯(うぐいす)の脛(すね)の寒さよ竹の中」

 庭先の竹の林にきている鶯。枝から枝へ飛び移る姿はいかにも春のものだが、その足がなんともきゃしゃで、寒そうだ-というものだ。普段なら気にもとめない鳥の「脛の寒さ」にふと気付いた風情の句で、春とはいえ、寒さが身にしみる日の一情景とみられる。

(参考資料)大岡 信「名句 歌ごよみ 春」

塙 保己一:数万冊の古文献を記憶し『群書類従』を 盲目の国学者

塙 保己一 数万冊の古文献を記憶し『群書類従』を編纂した盲目の国学者

 塙保己一(はなわほきいち)は、盲目ながら実に40年もの刻苦(こっく)研鑽の末、古典籍の集大成『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』を編纂した江戸時代後期の国学者だ。彼は、盲目のために人が音読したものを暗記して学問を進めたのだが、実に数万冊の古文献を頭に記憶した驚異の人物だった。その学識の高さは幕府にも知られ、総検校(そうけんぎょう)となり、「和学講談所」に用いられた。

 塙保己一は、武蔵国児玉郡保木野村(現在の埼玉県本庄市児玉町保木野)の農家の長男として生まれた。父・荻野宇兵衛、母・きよ。幼名は寅之助、失明後に辰之助と改めた。また一時期、多聞房(たもんぼう)とも名乗った。雨富検校に入門してからは千弥(せんや)、保木野一(ほきのいち)、保己一と改名した。塙は師の雨富須賀一検校の本姓を用いたもの。弟・卯右衛門。塙保己一の生没年は1746(延享3)~1821年(文政4年)。子に幕末の国学者、塙次郎がいる。次郎は保己一の四男で、本名は忠宝(ただとみ)。次郎は通称。『続群書類従』『武家名目抄』『史料』などの編纂に携わった。次郎は1863年(文久2年)、伊藤博文、山尾庸三の2人に暗殺された。

 塙保己一こと荻野寅之助は、7歳のとき肝の病がもとで失明した。あるとき修験者に生まれ年と名前を変えることを勧められ、年を2つ引き、名を辰之助と変えた。だが、視力が戻ることはなかった。荻野辰之助は1760年(宝暦10年)、15歳のとき江戸へ出て盲人として修行。17歳で盲人の職業団体、当道座の雨富須賀一検校に入門し、名を千弥と改め、按摩、鍼、音曲などの修行を始めた。しかし、生来不器用で、いずれも上達しなかった。また、座頭金の取り立てがどうしてもできず、自殺しようとした。その直前で助けられた千弥は検校に学問への思いを告げたところ、3年間経っても見込みが立たなければ国許へ帰すという条件付きで認められた。

 保己一の学才に気付いた雨富検校は、彼に様々な学問を学ばせた。国学・和歌を荻原宗固(百花庵宗固)に、漢学・神道を川島貴林に、法律を山岡浚明に、医学を品川の東禅寺に、和歌を閑院宮にそれぞれまなんだ。書物を見ることができないので、人が音読したものを暗記して学問を進めた。1769年(明和6年)には晩年の賀茂真淵に入門、わずか半年だったが『六国史』を学んだ。1775年(安永4年)、衆分からこう当に進み、塙姓に改め、名も保己一と改めた。

 塙保己一は1779年(安永8年)、彼にとっては生涯をかけたライフワークとなる『群書類従』の出版を決意した。1783年(天明3年)、保己一は遂に検校となった。1784年(天明4年)、和歌を日野資枝(すけき)に学んだ。1785年(天明5年)には水戸・彰考館に招かれて『大日本史』の校正にも参画し、幕府からも学問的力量を認められた。そこで保己一は1793年(寛政5年)、幕府に土地拝借を願い出て、「和学講談所」を開設、会読を始めた。ここを拠点として記録や手紙に至るまで様々な資料を蒐集し、編纂したのが『群書類従』だ。また歴史史料の編纂にも力を入れていて、『史料』としてまとめられている。この『史料』編纂の事業は紆余曲折あったものの、東京大学史料編纂所に引き継がれ、現在も続けられている。

 1819年(文政2年)、保己一のライフワークとなっていた『群書類従』が完成した。保己一は74歳になっていた。出版を決意し、その作業に着手したのが1779年(安永8年)、34歳だったから、実に40年の歳月が経過していた。この時点で併行して進められていた『続 群書類従』は、自らの手で完成させられなかったが、彼がこの事業を推進したからこそ、わが国の貴重な古書籍が散逸から免れ、人々に利用されてきた意義は大きい。

 保己一はまた、既述の通り様々な師に学んだ和歌でも優れた資質を発揮した。

 「鴨のゐる みぎはのあしは 霜枯(しもが)れて 己(おの)が羽音ぞ 独り寒けき」

  保己一の和歌は新古今調で、華麗鮮明な影像に富み、とても盲目の人の作品とは思えない。

 盲人学者・塙保己一の名は海外にも知られているようで、「奇跡の人」ヘレン・ケラーは幼少時から「塙保己一を手本にしなさい」と両親から教育されたという。1937年(昭和12年)に来日した際も、彼女は保己一の記念館(生家)を訪れている。

(参考資料)大岡 信「名句 歌ごよみ 冬・新年」

湯川秀樹 日本人を勇気付けた日本人初のノーベル賞受賞者

湯川秀樹 日本人を勇気付けた日本人初のノーベル賞受賞者

 湯川秀樹は周知の通り戦後、1949年(昭和24年)中間子理論で、日本人で初めてノーベル賞を受賞、日本人を勇気付けた理論物理学者だ。

 湯川秀樹は東京府東京市麻布区市兵衛町(現在の東京都港区六本木)で生まれたが、幼少時、父・小川琢治の京都帝国大学教授就任に伴い、一家で京都府京都市へ移住。1919年、京都府立京都第一中学校(現在の洛北高校)に入学。中学時代の湯川はあまり目立たない存在で、渾名は「権兵衛」。物心ついてからほとんど口を利かず、湯川は面倒なことはすべて「言わん」の一言で済ませていたため「イワンちゃん」とも呼ばれていた。第一中学の同期には学者の子供が多く、同じくノーベル物理学賞を受けた朝永振一郎は一中で1年上、三高、京大では同期だった。1929年、京都帝国大学理学部物理学科卒業。1932年、湯川玄洋の次女、湯川スミと結婚し、湯川家の婿養子となり、小川姓から湯川姓となった。

 1934年、湯川は中間子理論構想を発表した。まだ27歳のときのことだ。そして1935年「素粒子の相互作用について」を発表。原子核内部において、陽子や中性子を互いに結合させる強い相互作用の媒介となる中間子の存在を理論的に予言した。この理論は1947年、イギリスの物理学者によって中間子が発見され、湯川理論の正しさが証明されることになった。すでに日中戦争中だっただけに、日本人学者は海外からはなかなか評価されなかったが、湯川はソルベー会議に招かれ、以後、アインシュタインやオッペンハイマーらと親交を持つようになった。1949年、中間子理論により湯川はノーベル物理学賞を受賞。敗戦、GHQの占領下にあって自身を失っていた日本国民に大きな影響を与えた。

 湯川の功績は、日本人として初めてノーベル物理学賞を受賞したことだけではない。①アインシュタインらと平和運動に積極的に取り組んだこと②京都大学に「基礎物理学研究所」を設立、世界の研究者や、大学の枠を超えて若き研究者が集まり、思う存分意見を闘わせることができる国内・外研究者の“交流の場”をつくったこと③世界の物理学界に大きな刺激を与え続ける物理学の英文の論文雑誌「プログレス」を創刊したこと-などをその主要な功績に挙げることができる。

 湯川は、アインシュタインらが世界の著名科学者に呼びかけ、世界各国の指導者に核兵器廃棄を勧告した平和宣言「ラッセル=アインシュタイン宣言」に署名した11名(全員がノーベル賞受賞者)に名を連ねている。基礎物理学研究所は、湯川がノーベル物理学賞受賞を記念して設置された国内外の研究者の“交流の要(かなめ)”となった。1953年に第1回国際理論物理会議が開かれた。初回の会議参加者の中に、後にノーベル賞受賞者となる物理学者の名がある。同研究所は現在、理論物理、基礎物理、天体核物理まで広範囲に網羅、既成概念に捉われない広い視野で運営することを目指した湯川の精神が反映されている。

 「プログレス」は月刊。昭和21年の創刊時、湯川が資金の工面など発行に奔走。現在、800部が世界44カ国の研究機関に送付されている。プログレス創刊号に朝永振一郎の論文が掲載され、これが1965年(昭和40年)、朝永が日本人2人目のノーベル物理学賞の受賞対象論文となった。また、08年、ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英、小林誠の対象論文もプログレスで発表されている。

(参考資料)梅原 猛・桑原武夫・末川 博「現代の対話」、梅棹忠夫「人間にとって科学とは何か」、上田正昭「日本文化の創造 日本人とは何か」、湯川秀樹編「学問の世界 対談集」、「人間の発見 湯川秀樹対談集」、梅原 猛「百人一語」

東郷平八郎 日露戦争でロシアバルチック艦隊を撃滅した連合艦隊司令長官

東郷平八郎 日露戦争でロシアバルチック艦隊を撃滅した連合艦隊司令長官

 東郷平八郎は周知の通り、日露戦争・日本海海戦で連合艦隊司令長官として、当時世界で屈指の戦力を誇ったロシアバルチック艦隊を、一方的に破って世界の注目を集め、「アドミラルトーゴー」として、その名を広く知られることになった。当時、日本の同盟国だったイギリスのジャーナリストらは、東郷を自国の国民的英雄・ネルソン提督になぞらえ、「東洋のネルソン」と称えた。

 東郷は、わが国の近代史を形づくるうえで、大きな影響を及ぼした人物だ。しかし軍人であり、その最大の活躍場面が海戦だったため、戦後の特異な風潮のもとに、歴史の表面から覆い隠され、教科書からも抹消された。彼自身が古武士的な、地道で控えめな性格であり、生涯の大部分を懸けて身を置いた海軍が、政治的には表舞台へは出にくい社会だった。そのため、87年という長い一生にもかかわらず、日清・日露の戦争中を除いては劇的要素に乏しく、いわば平々凡々に終始した。裏返せば、彼は日清・日露の戦争で鮮やかに輝くためだけに、遣わされた人物だったのかも知れない。

 東郷平八郎は薩摩国鹿児島城下の加治屋町二本松馬場(下鍛冶屋町方限、現在の鹿児島県立鹿児島中央高校付近)に薩摩藩士・東郷吉左衛門実友と、堀与三左衛門の三女・益子の四男として生まれた。幼名は仲五郎(なかごろう)。平八郎の生没年は1847(弘化4)~1934年(昭和9年)。

 鹿児島の加治屋町は、山口・萩と並んで多くの明治維新の元勲を輩出した町として有名だ。いまも西郷隆盛・従道兄弟はじめ、大久保利通、大山巖、山本権兵衛らとともに、この東郷平八郎の生誕の地の碑を見ることができる。平八郎は8歳のころから、道ひとつ隔てた大山家(大山巖)の前を通って、大山家のすぐ近くにある西郷家に習字を習いに行くのが日課だった。吉之介(隆盛)は流罪に処され家にはいなかったが、その弟の吉次郎が、平八郎を可愛がり、書道を教えるかたわら、四書五経の素読もさせた。平八郎は、剣術は薬丸半左衛門に弟子入りして示現流の稽古一本に打ち込んだが、武士としての教養は川久保清一の塾で漢学を修めた。また、彼はむっつりしていて言葉数は多くはないが、なにかひらめくものがあると、ぱっと意外なことをいう才気煥発の面も持ち合わせていた。14歳のとき元服して平八郎実良と名乗った。1867年(慶応3年)、分家して一家を興した。

 平八郎は西郷吉次郎の口から、兄の吉之介、そして神戸海軍操練所塾頭上がりの坂本龍馬らの考え方、そして彼らの動きを含め、激しく変わりつつある幕末の社会情勢を聞かされた。彼は龍馬や中岡慎太郎のように天下国家のために動き回る人たちをうらやましく思った。そして早く薩摩を離れ、国事のために身を捧げたいと思った。平八郎は薩摩藩士として薩英戦争(1863年)に従軍し、戊辰戦争(1868~69年)では新潟、函館に転戦して戦った。薩英戦争に敗れ大損害を受けた薩摩藩は、直ちに海軍の整備に着手。翌年の元治元年に、今までの蒸気方を改めて開成所を開き、海軍砲術、海軍操練、海軍兵法、航海術を学科の中に加えた。薩摩藩は慶応2年、開成所を陸軍方と海軍方に分ける通達書を発布した。平八郎は家老の小松帯刀が海軍掛を務める海軍方に進んだ。

 平八郎は明治維新後の新海軍で1871年(明治4年)~1878年(明治11年)までイギリスに留学。その後、海軍少佐(1879年)となり、「浪速」艦長として日清戦争に出役、中将(1898年)となった。そして1903年、連合艦隊司令長官になり、参謀に秋山真之を得て、日露戦争において当時、世界屈指といわれたロシアのバルチック艦隊を撃滅、日本を圧倒的勝利に導いたことは周知の通りだ。官位および位階は従一位、元帥・海軍大将。

 ところで、東郷が連合艦隊司令長官に決定するにあたって、こんな逸話がある。連合艦隊という名前は、日露戦争開始とともにつけられた名前で、平時は常備艦隊と言っていた。常備艦隊の司令長官が、戦時は連合艦隊の司令長官になる。当時の常備艦隊の司令長官は、日高壮之丞だった。当時の海軍大臣・山本権兵衛(ごんのひょうえ)が何もしなければ、そのまま日高が連合艦隊司令長官になるはずだったし、日高自身もそう思っていた。

 ところが、山本権兵衛は親友であり、勇将としても名声があった日高の首を切り、当時、舞鶴にいた東郷を持ってきた。東郷は当時、それほど有能な人物とは思われていなかった。それだけに、意外な人事だった。日高は怒った。そして、海軍大臣の部屋に飛び込んできた。そこで、山本は日高に説明した。「お前は非常に賢い人間だが、非常に癖があり、人間に対する好みも激しい。そして戦術にも偏ったことを好む傾向がある。そういう人間は総大将にはなれないんだ」と。

 その点、「東郷にはそういうところがない。それに東郷はおとなしい男で、上の、大本営の命令を聞く男だ。お前を連合艦隊の司令長官にしたら、大本営とけんかになって、お前は聞かないだろう。そうすると、戦争ができなくなる」。日高は返す言葉がなく、黙って退出していったという。山本権兵衛の沈着冷静な見識眼が東郷起用につながり、「アドミラルトーゴー」を生んだのだ。

(参考資料)真木洋三「東郷平八郎」、吉村昭「海の史劇」、豊田穣「西郷従道」、司馬遼太郎「薩摩人の日露戦争」、三好徹「日本宰相伝② 運命の児」、邦光史郎「物語 海の日本史」

定朝 寄木造りで仏像の制作技術に革命を起こした京仏師の巨人

定朝 寄木造りで仏像の制作技術に革命を起こした京仏師の巨人

 定朝(じょうちょう)は、平安時代後期に活躍した京仏師のトップに君臨した巨人で、分業による寄木(よせぎ)造りを推進、仏像の制作技術に革命を起こした人物だ。こうした功績と、藤原摂関家の氏長者(うじのちょうじゃ)・藤原道長の庇護を受けたこともあって、仏師として初めて、僧侶の位だった法橋(ほっきょう)、法眼(ほうげん)という僧綱位(そうごうい)を受け、仏師が造仏を通じて仏教興隆に貢献したという評価を受けた。このほか、定朝はそれまで寺院に所属し造仏を行ってきた立場から、独立した仏所を設けて弟子たちを擁し、限られた時間でも多くの造仏を行うというシステムをつくり上げた。

 定朝は仏師僧・康尚(こうしょう)の子。生年不明、没年は1057年(天喜5年)。文献上は多くの事績が伝えられ、各地には定朝作と伝えられる仏像が残っている。が、現存する確実な遺作は平等院鳳凰堂本尊の木造阿弥陀如来坐像(国宝)のみといわれている。ただ、「定朝洋式」が日本人の志向に合致し、その後の仏像彫刻に決定的な影響を及ぼしたことは間違いない。平安時代後期、京仏師は貴族の庇護の下で仏像制作に携わり、仏像修理が主な仕事だった奈良仏師および、後に生まれるその奈良仏師の巨人、運慶の境遇と比較すると、仏像制作の仕事には恵まれていた。

 定朝の特筆すべき功績の一つとして、まず挙げておかなければいけないのが、仏像の寄木造りの技法だ。10世紀までの仏像彫刻に多くみられた一本の木を素材とする一木造りから、定朝はそれまでなかった、数本の木を組み合わせて造る寄木造りの手法を生み出したのだ。この方法だと、分業で複数の仏師が同時に分担したパートの制作にかかれるわけで、大型サイズの仏像を含め、制作期間を大幅に短縮することが可能となった。定朝の主宰する工房は極めて大規模だった。それを裏付けるのが次の例だ。史料によると、1026年(万寿3年)8月から10月にかけて行われた、後一条天皇の皇后(中宮)威子(いし、天皇の外祖父・藤原道長の三女)の御安産祈祷のために造られた27体の等身仏は、125人もの仏師を動員して造られたことが判明している。

 1052年(永承7年)、関白・藤原頼通が父・道長から譲り受けた別荘「宇治殿(うじでん)」を寺に改め、開創したのが平等院だ。平等院鳳凰堂の本尊、定朝の最高傑作といわれる阿弥陀如来坐像について少し記しておこう。穏やかな顔に、たっぷりした頬の膨らみ、瞑想する半眼の目、豊かな胸元、そして結跏趺坐(かっかふざ)して上品上生印(じょうぼんじょうしょういん)を結ぶ。背後には金色の光背、頭上にも、まばゆい金色の方・円二重の天蓋が覆い、周りには浄土の空に楽(がく)を奏でて飛翔する菩薩が舞う。

 皇円が著した史書「扶桑略記(ふそうりゃっき)」によると、阿弥陀如来坐像が鳳凰堂(阿弥陀堂)に安置されたのは1053年(天喜1年)2月19日。阿弥陀如来坐像は午前2時、京の仏所(工房)を出発、正午近くに宇治に到着。遷座式は天台宗寺門派園城寺(三井寺)の長吏明尊(ちょうりみょうそん)を導師に営まれた。周りを多くの僧たちが念仏を唱えながら行道(ぎょうどう)。散華(さんげ)のなかに楽人が舞い、妙なる雅楽が奏でられた。こうして、極楽浄土がここに舞い降りたのだ。

 阿弥陀如来坐像の安置される阿弥陀堂が鳳凰堂の名で呼ばれるようになったのは、江戸時代の初期といわれる。建物が鳳凰の姿を思わせ、また中堂の屋根に一対の鳳凰が飾られることに由来するという。この一対の鳳凰、北像と南像で大きさは異なるが、2像とも総高は1m足らず。これも定朝の意匠といわれる。

(参考資料)「日本史探訪/藤原氏と王朝の夢」、「古寺を巡る⑬ 平等院」