円仁 慈覚大師の諡号贈られるが、世俗の権力争いに加担した風評も

円仁 慈覚大師の諡号贈られるが、世俗の権力争いに加担した風評も

 円仁は平安時代初期の僧で、最後の第十七次・遣唐僧として唐に渡り、日本の天台宗を大成させた人物だ。また、彼は最初に朝廷から「慈覚大師」の「大師号」を授けられた高僧だ。ただ、こうした輝かしい事績の一方で、円仁には後の摂関家の権力者、藤原良房に結びつき、奉仕した僧-との指摘もある。円仁の生没年は794(延暦13)864年(貞観6年)。

 「大師号」がどれくらい稀少で品格の高さを表したものなのか、慈覚大師円仁の後に「大師号」を受けた高僧として「伝教大師」(最澄、彼の場合、円仁と同時期に授けられたとの説もある)、「弘法大師」(空海)などが有名だが、空海が授けられたのは、円仁の45年後のことだ。「大師号」は勝手に付けたり、名乗れるものではなく、帝よりいただくもの。それだけに、最初に大師号を授けられる栄誉に浴した円仁は、その偉大さを示している。

 円仁は、下野国都賀郡の現在の岩舟町下津原で生まれた。俗姓・壬生。9歳から6年間、広智菩薩のもと、現在の岩舟町小野寺にある大慈寺で修行し、15歳で比叡山に登り最澄の弟子となった。比叡山での修行の後、当時の日本有数の僧となった円仁は、42歳のとき遣唐使一行に短期留学の高僧として加えられた。43歳になった836年(承和3年)、円仁らの遣唐使船は博多港を出発したが、暴風に遭い大破し中止となった。838年(承和5年)、円仁45歳のとき3度目の挑戦で、ようやく唐に到着した。それから9年半の苦難の旅が始まった。

 円仁の入唐の目的は、天台宗の発祥の地、天台山へ行くことだったが、旅行許可証が発行されず、天台山へは行けなかった。そこで、彼は五台山と長安へ行き、主として天台と密教を学んだ。天台宗の教勢を拡大するには、加持祈祷を行う密教を本家・中国で学ぶことが必要だと考えた師・最澄の悲願の達成だった。この入唐からこの後、847年(承和14年)日本に帰国するまでの9年半にわたる唐滞在の記録が『入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)』だ。

 『入唐求法巡礼行記』は玄奘の『大唐西域記』、マルコポーロの『東方見聞録』とともに三大旅行記の一つとされ、唐の国や仏教中心地の様子がうかがえる古代史の第一級の史料だ。しかも、これは日本人が書いた旅行記だ。玄奘やマルコポーロが口述して他の者にまとめさせたのに対し、『入唐求法巡礼行記』は円仁自ら書き残したものだ。この記録を読む限り、円仁は実に熱心に仏法を求める、忍耐強い人物だったことが分かる。彼の観察は冷静で的確だ。

 ただ、帰国後の円仁の行動には、高僧にあるまじき、不可解とも取れる部分がある。円仁は弟子の安恵(あんね)とともに当時の権力者、藤原良房に結びつき、加持祈祷により第一皇子・惟喬(これたか)親王を皇太子に立てようとする文徳天皇の意思を挫き、良房の娘・明子(あきらけいこ)の産んだ惟仁(これひと)親王、後の清和天皇を擁立しようとする陰謀に加担したらしいのだ。

 円仁の死後2年、866年(貞観8年)、空海らをさし措いて、冒頭に述べた「慈覚大師」の諡号(しごう)が贈られたのも、こうした功績への見返りだったとも取れるのだ。とすれば、彼は権力者に奉仕した僧になってしまうのだ。円仁が有名になったのは、米国の元駐日大使のライシャワーが、『入唐求法巡礼行記』を英訳し、世界の人々に広く紹介したことによる。晩年、第三世天台座主に就いている。

(参考資料)梅原 猛「百人一語」、北山茂夫「日本の歴史④平安京」、佐伯有清「円仁」

永井尚志 諸外国との通商交渉を担当し、旗本から異例の若年寄に栄進

永井尚志 諸外国との通商交渉を担当し、旗本から異例の若年寄に栄進

 永井尚志(ながいなおむね・ながいなおゆき)は江戸時代後期、三河奥殿藩主の晩年の子として生まれたため、家督はすでに養子に譲られていたことから、藩主にはなれず、旗本の養子に出された。しかし、幕臣として立身し、様々な要職を務め、旗本から異例の若年寄に栄進した人物だ。戊辰戦争では幕府軍が敗れることを予測していながら、潔く最後まで幕府に忠誠を尽して戦った忠臣として高く評価されている。生没年は1816(文化13)~1891年(明治24年)。

 永井尚志は三河国奥殿藩第五代藩主・松平主水正(もんどのしょう)乗尹の子として国許で生まれた。名は岩之丞、法号は介堂。後に玄蕃頭(げんばのかみ)を称した。父の晩年に生まれたため、家督はすでに養子の松平乗羨が相続していたことから、藩主の座に就くことはできなかった。江戸藩邸で養育されたが、1840年(安政元年)25歳のとき浜町に本邸を持つ2000石の旗本、永井能登守尚徳の養子となった。幕臣・永井尚志の誕生であり、新たな人生のスタートだった。

 永井は1847年(弘化4年)小姓組番士を皮切りに、御徒士頭を経て、1853年(嘉永6年)、目付として幕府から登用された。永井48歳のときのことだ。1854年(安政元年)には長崎伝習所の総監理(所長)として長崎に赴き、長崎製鉄所の創設に着手するなど活躍。1858年(安政5年)、それまでの功績を賞されて呼び戻され、岩瀬忠震(いわせただなり)とともに、外国奉行に任じられた。そして、ロシア、イギリス、フランスとの交渉を務め、通商条約に調印した。その功績で軍艦奉行に転進した。

 順調に出世街道を歩んだ永井だったが、ここで挫折を味わうことになる。徳川十三代将軍家定の後継争いで、永井は一橋慶喜(後の十五代将軍)を推す一橋派を支持したため、「安政の大獄」(1859年)の嵐の中、時の大老・井伊直弼の反感を買い、奉行職を罷免され、失脚したのだ。しかし、井伊直弼が「桜田門外の変」(1860年)で暗殺されると、幸運にも再び道が開かれる。永井は1862年(文久2年)、京都町奉行として復帰し、活躍の舞台を与えられる。1864年(元治元年)、禁門の変では幕府側の使者として朝廷と交渉するなど、交渉能力で手腕を発揮した。その結果、1867年(慶応3年)には旗本からは異例の若年寄まで出世した。

 大政奉還から戊辰戦争、そして明治維新に至る激動の時代は、幕臣・永井にとっては、“負け組”を覚悟しながらも、輝ける最後の時期でもあった。鳥羽・伏見の戦いの後には、十五代将軍慶喜に従って、大坂から軍艦で江戸へ逃げ戻り、その後の戊辰戦争では榎本武揚とともに蝦夷へ戦いの舞台を移している。彼は箱館奉行となり新政府軍と戦ったのだ。箱館・五稜郭での戦いに敗れて榎本らとともに自決しようとしたが、周囲に止められて、不本意ながら降伏した。明治維新後、1872年(明治5年)、新政府に出仕し、開拓使御用係、左院小議官を経て、1875年(明治8年)に元老院権大書記官に任じられた。

 永井は忠臣として評価されているのだが、政治的な立場からみると、決して開明派の人物ではなかったとの指摘がある。それは、第一次長州征伐の事態収拾でのことだ。そこで永井は後から交渉に関わったにもかかわらず、長州藩主・毛利敬親を捕縛しさらし者にすることを主張。交渉をまとめた征討総督の尾張藩・徳川慶勝らの面目を潰し、参謀の西郷隆盛に批判、論破されているのだ。こうした点を考え合わせると、彼は旧態依然とした幕府中心主義から最後まで脱し切れなかった守旧派の人物とみることもできる。 

(参考資料)司馬遼太郎「最後の将軍」、童門冬二「流浪する敗軍の将 桑名藩主松平定敬」、大島昌宏「罪なくして斬らる 小栗上野介」

叡尊 奈良・西大寺を復興、「興正菩薩」の尊号贈られた名僧

叡尊 奈良・西大寺を復興、「興正菩薩」の尊号贈られた名僧

 叡尊は真言律宗の僧で、奈良・西大寺を復興した僧として知られる。真言の呪法ダラニで「文永の役」(「元寇」)で蒙古の襲来を退けるという祈祷を行い、その呪法が効いたのか、大風が吹き元軍は壊滅、その名声を高めた。また、鎌倉幕府の五代執権・北条時頼はじめ、その補佐役だった権力者・金沢実時、将軍・宗尊(むねたか)親王、さらには亀山上皇、後嵯峨上皇、後深草上皇らもこの叡尊に帰依していたといわれる名僧だ。入滅10年後「興正菩薩」の尊号が贈られた。叡尊の生没年は1201(建仁元)~1290年(正応3年)。

 叡尊は、大和国添上郡箕田里(現在の大和郡山市白土)で生まれた。字は思円(しえん)。父は源義仲の後裔、興福寺の学侶の慶玄(きょうげん)。7歳で生母を失い、京都醍醐寺近くの巫女に養われたが、11歳でこの養母も亡くなった。そこで、その妹に引き取られ、育てられた。叡尊は1217年(建保5年)、17歳で醍醐寺の阿闍梨叡賢に師事して出家。1224年(元仁元年)高野山に入り、真言密教を学んだ。1235年(嘉禎元年)、35歳のとき、当時荒廃していた西大寺に入寺。戒律の復興を志して、西大寺宝塔院持斎僧となり『四分律行事鈔』を学んだ。

 様々な史料によると、西大寺は11世紀前半までに「四王堂」倒壊、金堂四天王像は野ざらしの状態で、1118年(元永元年)、食堂と塔一基を残し、西大寺諸堂は大破して、修復も行われず、礎石だけの状態となった。こうした荒れ寺、西大寺に叡尊は入り、再建しつつ、根拠地としたのだ。1236年(嘉禎2年)、覚盛(かくじょう)、円晴(えんせい)、有厳(うごん)らと東大寺で自誓受戒。地頭の侵奪により、西大寺が荒廃したため、叡尊は海龍王寺に移った。

 1238年(歴仁元年)、叡尊は持戒のあり方をめぐり、海龍王寺の衆僧と対立したために西大寺に戻った。そして西大寺の復興に努め、結界・布薩した。1240年(仁治元年)、叡尊は西大寺に入寺した忍性(にんしょう)の文殊菩薩信仰に大きな影響を受けた。額安寺西宿で最初の文殊供養(文殊図像を安置)を行い、近傍の非人に斎戒を授けた。1242年(仁治3年)、奈良の獄屋の囚人たちに斎戒沐浴させた。1247年(寛元5、宝治元年)、仏師・善円に念持仏・愛染明王坐像をつくらせ、1249年(建長元年)、仏師・善慶に京都・清涼寺釈迦如来像の模刻をつくらせ、西大寺四王堂に安置した。

 1258年(正嘉2年)、叡尊は絵師・尭尊に金剛界曼荼羅、1260年(文応元年)、胎蔵界曼荼羅をそれぞれ描かせた。1262年(建長2年)、前年来の北条実時からの懇請に応え関東へ下向。北条実時・時頼に拝謁し、授戒した。1279年(弘安2年)には亀山上皇以下公卿らに授戒と、『梵網経古迹記』の講義を行った。この結果、叡尊は鎌倉・北条執権家および京都・朝廷にも広く支持される存在となったのだ。1285年(弘安8年)には、院宣により四天王寺別当に就任した。叡尊は1285年までの50年間、民衆3万8000人に菩薩戒を集団的に授けたほか、彼は生涯に700余の寺院を創建・修復したといわれる。1286年(弘安9年)、叡尊は自ら「真言律宗」という真言宗のうちで「戒律」を重んずる宗派を興した。当時、世は乱れ、まさに「末法思想」が時代を覆っていた。この末法思想を前提に法然は「念仏」を唱え、日蓮は「題目」を主張した。叡尊もまた末世の自覚ゆえに真言を選んだ。

 しかし、彼は当時の真言のあり方に批判を持った。彼は真言にも「戒律」が必要だと考えたのだ。そして、空海の「仏道は戒なくしてなんぞ到らんや」「もしことさらに犯すものは仏弟子にあらず。(中略)わが弟子にあらず」という言葉をもって、空海の思想を継ごうとしたのだ。彼は、この空海の言葉を中心に据え、「戒」を重視する真言宗を唱えたのだ。それが「真言律宗」だ。叡尊は、この「戒」の思想をどこから得たのか。恐らく鑑真の影響を受けたものとみられる。彼の「戒律」の強調は、あまりに現世的になり、厳しい求道精神を失っていた当時の仏教への真正面からの批判であり、それはまた民衆の歓迎するところだった。

 1290年(正応3年)西大寺で病を発し入滅。10年後の1300年(正安2年)伏見上皇の院宣により、「行基菩薩」の先例にならって、「興正菩薩」の尊号が贈られた。

(参考資料)梅原 猛「海人(あま)と天皇」

伊東玄朴 貧農生まれながら幕府奥医師まで登り詰め、蘭方の地位を確立

伊東玄朴 貧農生まれながら幕府奥医師まで登り詰め、蘭方の地位を確立

 伊東玄朴は、長崎の鳴滝塾でシーボルトからオランダ医学を学び、徳川第十三代将軍家定が脚気で重体に陥ったとき、戸塚静海とともに蘭方医として初めて幕府奥医師に登用され、官医界における蘭方の地位を確立した人物だ。「シーボルト事件」(1828年)では、幕府天文方兼御書物奉行・高橋作左衛門からの日本地図を、長崎のシーボルトに届け、罪科に問われるはずだった。だが幸運にも、玄朴は奇跡的に連座を免れた

 伊東玄朴は肥前国神埼郡仁比山村(にいやまむら、現在の佐賀県神埼市)で生まれた。生家は貧農で、名は勘造といった。彼が肥前藩から正式に伊東玄朴と名乗ることを許されるのは30歳ごろのことだが、ここでは玄朴で統一する。玄朴の生没年は1800(寛政11)~1871年(明治4年)。彼は読書を好み、隣村の小淵に住む漢方医・古川左庵のもとに下男として住み込んだ。生家に留まれば、田畑を耕し種をまいても、辛うじて飢えをしのぐ程度の収穫しかない。恵まれた頭脳をもって生まれた彼は、農耕以外に立身の道を求めようとし、医家を志したのだ。

 玄朴は左庵の家の雑役をしながら、薬箱を提げて往診する左庵につき従って4年間を過ごした。その間に、彼は少しずつ治療の方法を見習っていった。左庵も熱心な彼に目をかけ、薬の調合などもさせるようになった。玄朴が19歳のとき父・重助が死去し、彼は家に帰ったが、家はいぜんとして貧しく借財もあった。農業では借金も支払えないと判断し、大胆にも彼は漢方医の看板を掲げた。生家には母と病弱の弟がいた。このままでは飢え死にを待つばかりだと、彼は必死だった。薬の調合は習ったが、治療の方法はほとんど知らなかった。だが、彼は病人を丁寧に扱った。夜遅くでも起こされれば、喜んで出かけ、泊り込みで病人を見守ることも多かった。

 そんな玄朴の態度が素朴な農家の人々に好感を与え、徐々に患家が増えていった。4年の歳月が流れ、彼は休みなく働き、徹底した節約もしたので、かなりの金銭を蓄えることができた。彼は借財を払い、さらに田畑を買い求めて弟に与えた。そして、23歳になっていた彼は、一人前の医家になるためには勉学しなければと考え、郷里を去って佐賀に赴き、蓮池町に住む町医・島本龍嘯を訪れた。島本はオランダ医学に興味を持っていたので、玄朴に長崎へ出てオランダ医学を修めるように勧めた。

 蓄財もない玄朴は長崎で、寺男として寺に住み込み、オランダ通詞・猪俣伝次右衛門にオランダ語を習うことになった。猪俣の門には、全国から由緒ある各藩の医家やその子弟が集まり、例外なく恵まれた遊学生活を送っていた。対照的に、玄朴の生活は貧しく悲惨なものだった。だが、彼は寸暇を割いて勉学に励み、同門の者たちとの交際も一切断った。

 1823年(文政6年)、長崎にきたシーボルトを中心に洋学の研究が盛んになっていた。シーボルトの開いた鳴滝塾には多くの日本人学徒が集まってきていた。玄朴は猪俣につき従って鳴滝塾に通い、シーボルトの講義を末席で聴講した。1826年(文政9年)、シーボルトはオランダ商館長に随行して長崎・出島を出発、将軍の拝謁を得るため江戸へ向かった。それを追うように師・猪俣伝次右衛門も妻、息子、娘を従えて江戸へ出発し、玄朴も同行した。この道中、思いもかけない不幸が起こった。駿州・沼津の宿場で師の猪俣が病を発症し亡くなってしまったのだ。玄朴は悲嘆にくれる妻子とともに、浅草の天文台役宅に入った。

 江戸での玄朴は師の息子、猪俣源三郎がオランダ語の教授を務める手助けをしていた。が、1827年(文政10年)、故郷へ帰ることになった。その際、源三郎から天文方の高橋作左衛門に依頼された日本地図を、長崎のシーボルトへ渡すよう命じられたのだ。1828年(文政11年)、浅草の天文台下に住む高橋作左衛門の捕縛によって「シーボルト事件」は公になった。縛につくものが相次ぎ、源三郎も捕吏に引っ立てられ玄朴に対する追及も始められた。ただ、幕府からシーボルト事件に関係があると疑われることを怖れる肥前藩の留守居役の好判断も加わって、貧農の出の玄朴はこのとき奉行所の手前、藩士・伊東仁兵衛の次男・玄朴として、奉行所の取り調べに対応したのだ。そして、奉行所の詮議には、自分はただの使いで、シーボルトに渡した包みについては一切知らぬ-との申し開きを必死で貫き通し、連座を免れた。

 玄朴にとって悪夢のようなシーボルト事件は、この事件で大半のオランダ通詞が処分を受けたことで、結果的には幸運を運んできた。オランダ語を幾分でも知っている玄朴の存在が貴重なものとなったのだ。そして、その年、友人から金5両を借り受けて江戸本所当場町で医業を開いた。さらに、自分の地位を高めるためにも、主がシーボルト事件で捕縛され生活に困窮していた、著名な通詞、猪俣源三郎の妹、照を妻として迎え入れた。

 その後、猪俣源三郎の獄中死、玄朴の実家が火災に遭うなど不幸が続いた。が、たまたまあたり一帯に流行したジフテリアの際、患家を走り回って熱心に治療にあたった彼の懇切な治療態度が人の口にのぼるようになり、訪れる病人の数が増えてきた。そこで、医家らしい伊東玄朴という名前を使うようになった。そして、肥前藩邸にもしきりに出入りし運動した結果、一代限りだが士分に取り立てられ、正式に藩士・伊東仁兵衛の次男、玄朴として名乗ることを許されたのだ。

 このことは彼にとって大きな喜びだったが、彼の富と栄達に対する野望は果てしなかった。彼の最終の望みは、幕府の医家の地位を得ることと、それに伴う富だった。そのため、彼は大医家としての外観を備える必要があると考え、天保4年、高名な大工に依頼して診察所、調薬所、待合所、医学・蘭学の門弟の寄宿室等を合わせた豪壮な大邸宅を建てた。彼の思いは見事に当たった。象光堂と称した玄朴の太医院は物見高い江戸の町人たちの話題になり、患者が殺到した。彼の富は急速に増し、その年彼の得た収入は、金1000両を越えると噂された。門下生の数も百名近くに達した。

 こうして玄朴は太医家としての地位を着々と築き上げ、江戸屈指のオランダ医家と称されるようになった。1843年(天保14年)、肥前藩主・鍋島直正の御匙医に召され、さらに弘化4年には御側医に取り立てられた。また、玄朴は蘭医・大槻玄沢らとともにオランダ医学の優秀性を立証しようと努め、折からの天然痘予防策としての種痘術の大きな効果で、当時幕府で重用されていた漢方医学に大きな打撃を与えることに成功した。

 そんな玄朴が1858年(安政5年)、幕府から召し出された。第十三代将軍・徳川家定の病が篤く、漢方の奥医師たちが手をつけかねているので、江戸随一のオランダ医学の臨床家の玄朴に治療を申し付けることに決定したというのだ。玄朴にとって願ってもない幸運が訪れた。玄朴は協力してくれる医師として蘭医・戸塚静海を推し、治療に従事した。玄朴、静海はその瞬間から奥医師となったのだ。玄朴らは懸命に治療に当たったが、その甲斐なく家定は逝去した。その年、玄朴は法橋から法眼に進み、奥医師として勢威を振るうようになった。そして、1861年(文久元年)、オランダ医家として初めて奥医師最高の地位である法印の座にも就いた。遂に彼の年来の望みは達せられたのだ。

(参考資料)吉村 昭「日本医家伝」、吉村 昭「ふぉん・しいほるとの娘」、吉村 昭「長英逃亡」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

安藤信正 井伊直弼亡き後の幕政を掌握,公武合体へ和宮降嫁をまとめた人物

安藤信正 井伊直弼亡き後の幕政を掌握,公武合体へ和宮降嫁をまとめた人物

 安藤信正は、寺社奉行・若年寄を経て老中に就任し、1860年(万延元年)、大老・井伊直弼が桜田門外で暗殺されるや、老中・久世広周(くぜひろちか)とともに幕政を掌握、最高権力者に昇りつめた。そして、公武合体の実を挙げるべく、1862年(文久2年)、孝明天皇の皇妹和宮親子(かずのみやちかこ)内親王と徳川十四代将軍家茂との婚儀を取りまとめた人物だ。だが、信正は1862年(文久2年)、江戸城坂下門外で水戸浪士に襲撃され、井伊直弼に続く幕府要人の襲撃事件で、さらに幕威の低下を招く要因となった。幸い彼は負傷で済んだが、非難を受け、その後老中を免ぜられ、隠居した。意外に知られていないことだが、戊辰戦争では、若い藩主に代わり藩を主導、奥羽越列藩同盟に加わり、新政府軍と戦い敗れた。晩節を汚したかに見えたが、明治維新後、永蟄居処分が解かれた。

 安藤信正は陸奥国磐城平(いわきたいら)藩の第四代藩主・安藤信由の嫡男として、江戸藩邸で生まれた。幼名は欽之進、のち欽之介。元服時は信睦(のぶゆき)、老中在職中に信行、さらに信正へ改名している。別名は鶴翁、欽斎、晩翠。磐城平藩5万石の第五代藩主となり、安藤家第十代当主。生没年は1820(文政2)~1871年(明治4年)。信正は1847年(弘化4年)、父の死により家督を継いだ。1858年(安政5年)、大老・井伊直弼の下で若年寄となった。そして1860年(安政7年)、老中となった。大老・井伊直弼が断行した「安政の大獄」など強硬路線を否定し、直弼が桜田門外で暗殺された後は、老中久世広周と幕政を掌握した。

 信正は、歌舞伎役者のような優男にみえる外見とは裏腹に、果断さと緻密さを併せ持ち、直弼亡き後の難局を公武合体策で乗り切ろうと、難渋した和宮降嫁を取りまとめた。幕末、配下に幕臣として勘定奉行などの要職を務め、新政府軍との抗戦派の急先鋒だった小栗上野介忠順(ただまさ)を登用したのも、この信正の意志で、小栗とも厚い信頼関係にあった。1862年(文久2年)坂下門外で水戸浪士に襲撃され負傷。非難を受け、また女性問題やアメリカのタウンゼント・ハリスとの収賄問題などが周囲から囁かれて、老中を罷免された。その後、隠居、謹慎を命じられ、5万石の所領のうち2万石を減封された。跡を長男、信民が継いだが、1863年(文久3年)死去したため、甥の信勇を次の藩主に選んだ。

 1868年(慶応4年)、明治政府が立ち上がると、信正は若年の信勇に代わって本領での藩政を指揮した。戊辰戦争では、奥羽越列藩同盟に加わり新政府軍と戦ったが敗れ、居城の磐城平城は落城した。信正も降伏、謹慎を余儀なくされた。1869年(明治2年)永蟄居の処分が解かれた。

(参考資料)山本博文「徳川将軍家の結婚」、吉村 昭「桜田門外の変」、大島昌宏「罪なくして斬らる 小栗上野介」、中嶋繁雄「大名の日本地図」

鮎川義介 日本で初めて自動車の量産に取り組んだ先覚者で日産の創業者

鮎川義介 日本で初めて自動車の量産に取り組んだ先覚者で日産の創業者

 鮎川義介(あいかわよしすけ、本名・あゆかわよしすけ)は、昭和初期、大陸での軍事輸送という国策上、国産車が必要になってきた際、陸軍から話を持ちかけられた三井、三菱の財閥が二の足を踏む中、自動車の国産化に名乗りを上げた人物だ。つまり、鮎川は現在の日産自動車のそもそもの創業者、日本で初めて自動車の量産に取り組んだ先覚者だった。鮎川義介の生没年は1880(明治13)~1967年(昭和42年)。義介は1928年(昭和3年)、義弟、久原房之助(くはらふさのすけ)氏が率いて経営不振に陥った久原鉱業を継承し、同社を日本産業と改称。以後、多数の企業の吸収合併を繰り返し、日産コンツェルンを築き上げた。48歳のときのことだ。同コンツェルンには日立製作所、日本鉱業、日産自動車、日本油脂、日本冷蔵、日産化学、日本炭鉱、日産火災、日産生命などが含まれる。

 1933年(昭和8年)、自動車工業株式会社(現在のいすゞ自動車)より「ダットサン」の製造権を無償で譲り受け、ダットサンの製造のために自動車製造株式会社を設立した。53歳のときのことだ。翌年、自動車製造株式会社を日産自動車製造株式会社と改称した。1937年(昭和12年)、中国・満州開発を企図する陸軍や、岸信介(当時、満州国政府産業部次長)らの勧めに応じ、日産コンツェルンの本社・本部機能を果たしていた日本産業を満州に移して、満州重工業開発株式会社に改組、義介は総裁に就任した。しかし、経営方針をめぐって陸軍と対立し、1942年同社総裁を辞任した。

 帰国後は東条英機内閣顧問となった。戦後、A級戦犯容疑により拘置された。釈放後、義介は、1953年(昭和28年)から1959年(昭和34年)まで参議院議員を務めた。何事もなければ議員生活はまだ続いていたろう。実は1959年、義介は参議院選挙に立候補し当選した。しかし、同時に当選した次男・鮎川金次郎に選挙違反容疑がかけられ、道義上の責任を取って議員を辞職したのだ。1957年(昭和32年)日本中小企業政治連盟を結成し、総裁を務めた。

 鮎川義介は、山口県氷川郡大内村で元長州藩士・鮎川弥八と母ナカの間に長男として生まれた。明治の元老、井上馨の長姉の孫にあたる。姉スミをはじめ5人の姉妹と1人の弟がいた。父の弥八は、旧江戸幕府時代、長州藩士毛利侯に仕えて190石を支給される中士クラスの武士だった。ところが、明治維新という時代の波に乗り損ねたばかりか、柄にもなく軍人を志した。が、身体虚弱のため挫折、郷里へUターンした。いったん県吏になったが、そこも不満のうちに辞職し、創刊間もない防長新聞社へ入って、校正係兼会計係として勤務する身となった。

 律儀で漢籍に詳しい父親だったが、その半面、社交性に乏しく、片意地でうだつの上がらない不平家でもあった。典型的な貧乏人の子だくさん、うだつのあがらない父親だっただけに、鮎川家は貧しかった。それも尋常な貧しさではなかった。一汁一菜どころか、塩辛い漬物だけで麦の混じった飯をかき込むという食事だった。家は貧しいが、祖母の常子は明治政府の高官、井上馨の姉だった。その井上が、義介の後見役を引き受けてくれたため、彼はその後ひけ目を感じることなく上級学校に進むことができたのだ。そして、この祖母が義介を認め、励まし続けた。それが、義介のやる気の基になった。当時一流の教師が教鞭をとっていた山口高等学校(現在の山口大学の前身)に入学した義介は学費の援助も受けられた。

 三井銀行の顧問格で、一度野に下った井上馨は、先収社(せんしゅうしゃ)という貿易事業を営んだ経験を踏まえ、実業と工業がこれからの日本を発展させるための鍵になると考え、義介に技師=エンジニアの道を勧めた。そして、義介は井上のアドバイス通り東京帝国大学工学部機械科に入学。衣食住のすべてを井上に委ね、エンジニアの道を目指した。卒業寸前、血を吐き一頓挫はあったが、24歳で卒業した鮎川義介は、保護者の井上馨の勧めで三井へ入ることになった。が、面接から戻った義介は三井への入社辞退を申し出た。

 義介は井上に、いずれは実業家となって、世に立ちたいと思いますが、まず産業とは何か、工場とはどんな所かを知るために、一職工となって工業の基本から学びたい-とその理由を話し、彼が目星をつけた芝浦製作所(現在の東芝)を井上に紹介してもらった。東大卒の学歴を隠して、見習い工として就職した。日給48銭の見習仕上工は、朝早くから夕方まで、一日中立ち通しで働かされた。約2年間の実地学習の仕上げとして、義介は有志を募って東京中の工場見学に精を出した。同志が脱落していく中、彼は80近い工場を回り、日本で成功している企業はすべて欧米の模倣によるものということが分かった。そこで、義介はその西欧の状況を体験すべく渡米。約1年強を可鍛鋳鉄工場(グルド・カプラー社)で労務者として働いた。

 米国から帰国後、1911年(明治42年)、井上の支援を受けて福岡県北九州市戸畑区に戸畑鋳物株式会社(現在の日立金属)を創立。29歳のときのことだ。これが実業家・鮎川義介のスタートだった。マレブル(黒芯可鍛鋳鉄)継手を製造した。1921年(大正10年)、当時としては珍しい電気炉による可鍛鋳鉄製造開始。1922年(大正11年)、大阪に株式会社木津川製作所(桑名)を設立(現在の日立金属、三重県桑名工場の前身)。1924年(大正13年)、農業用・工業用・船舶用石油発動機(現在のディーゼルエンジン)製造販売開始した。

 2005年(平成17年)、鮎川弥一(義介の長男)の長男・鮎川純太氏(義介の孫)がタレント、杉田かおると結婚(その後、離婚)し話題となった。

(参考資料)邦光史郎「剛腕の経営学 鮎川義介」