加島屋 幕末まで「大名貸し」で、維新後は大同生命再建に心血注ぐ

加島屋 幕末まで「大名貸し」で、維新後は大同生命再建に心血注ぐ

 江戸時代、加島屋は鴻池と肩を並べる大阪の豪商だった。初代・広岡久右衛門正教が大阪で精米業を始めたのが1625年。徳川三代将軍家光がその職に就いて間もないころのことだ。後に両替商を営むと屋号に「加島屋」を掲げた。四代当主・正喜は1730年に発足した世界初の先物取引所「堂島米会所」で要職を務め、業容を拡大した。八代将軍吉宗、九代将軍家重のころの時代だ。 

 1829年(文政12年)の「浪花持丸長者鑑」をみると、東の大関に鴻池善右衛門、西の大関は加島屋久右衛門とある。そして1848年(弘化5年)の「日本持丸長者集」によると、東の大関は鴻池善右衛門、西の大関はやはり加島屋久右衛門となっている。加島屋は鴻池と同様、引き続き隆盛を誇っていたのだ。徳川十一代家斉のころ、さらには十二代家慶、そして十三代家定のころもまさに指折りの大阪の豪商だった。

 時代は一気に下るが、その系譜を受け継ぐのが大同生命保険だ。九代当主・正秋は生保3社の合併を主導し、1902年に大同生命を発足させ初代社長に就いた。加島屋と大同生命は常に時代の最先端を歩んできた。

 豪商「淀屋」の例をみるまでもなく、商人の世界は、とりわけ浮き沈みが激しい。中でもこの加島屋の場合「七転び八起き」をはるかに上回る、さながら”九転び十起き”ともいえる激しさだったろう。こんな中、一貫して同家を率いた当主には、不撓(ふとう)不屈の精神と、挑戦のDNAが脈々と流れていた。

 幕末の1865年時点で全国に266の藩が存在していた。加島屋はそのうち、実に約100藩と取引があり、年貢米や特産品を担保にした融資「大名貸し」は総額900万両(現在の4500億円相当)に及んだ。幕末ならではの逸話として、1867年には新選組にも400両を貸し付け、借金の証文には近藤勇と土方歳三が署名していたという。

 だが、明治維新で不幸にもこれらの大名貸しの大半が回収不能となった。そこへ救世主ともいうべき人が現れる。三井一族から加島屋の分家に嫁いだ広岡浅子という女性だ。夫の広岡信五郎は正秋の実兄で、分家の養子に出されていた。まだ若かった本家の正秋に代わり、浅子が陣頭指揮に立った。

 男顔負けの太っ腹で、持参金をはたき、米蔵を売却、焦げ付いた大名貸しに対する明治政府の補償も注ぎ込んで、福岡県の潤野炭鉱を買収した。荒くれ者が多かったであろう炭鉱労働者が働かない時は、拳銃持参で鉱山に乗り込み、直談判で血路を開いたという。

 やがて、勢いを取り戻した加島屋は銀行業や紡績業に進出する。信五郎は1889年発足の尼崎紡績(現ユニチカ)で初代社長を務めた。

 正秋は1899年、真宗生命の経営を引き受ける。浄土真宗の門徒を対象にした生保だったが、経営に失敗し、門徒総代格だった広岡家が再建を託されたのだ。正秋は朝日生命保険(現在の朝日生命保険とは別)と改称し、本社を名古屋から京都に移したが、契約獲得競争は激烈で、経営はいぜんとして厳しかった。

 そこで、また登場するのが浅子だ。彼女は同業の北海生命保険、護国生命保険と合併するシナリオを描き、1902年7月に大同生命が誕生する。同年3月15日付の合併契約書では「東洋生命」だったのを改め、「小異を捨てて大同につく」姿勢を合併新会社の社名に込めたのだ。

 大事を成し遂げたからといっても、その功績にあぐらをかいて居座るような考えは、浅子には微塵もなかった。その後、娘婿の広岡恵三に後事を託すと浅子は実業界から身を引き、日本女子大学の設立に情熱を傾けた。

 1909年に大同生命の二代目社長となった恵三は、33年間にわたって会社を率いた。この間、堅実経営を貫き、外務員の教育に務めた。

 正秋の女婿で十代当主を継いだ正直が1942年に大同生命三代目社長に就任すると、装いを新たにする。正直は米国で金融の実務を経験した国際派だった。1947年、大同生命は相互会社に転じた。これまでの加島屋が営む会社から、保険契約者がオーナーの会社に移行したのだ。

 1971年には「第2の創業」を果たす。貯蓄性のある養老保険・終身保険主体から、安い保険料で中小企業経営者に高額の保障を提供する定期保険主体へと舵を切った。保障が最高1億円の「経営者大型総合保障制度」は発売から2年足らずで契約4万7841件、保険金額5102億8700万円に達した。そして2002年には他社に先駆けて株式会社に転換した。

 明治以降の、かつての豪商の系譜を継ぐ加島屋の歴史は、大同生命の再建・再生の歴史だった。

(参考資料)邦光史郎「日本の三大商人」、日本経済新聞・「200年企業-成長と持続の条件」

淀屋常安 全国一の豪商も子孫の驕りが招いた“闕所”で消滅

淀屋常安 全国一の豪商も子孫の驕りが招いた“闕所”で消滅
 武家社会、商人にとって何よりも恐ろしいのは“闕所(けっしょ)”だった。商人が闕所になると、資財はすべて没収され、家屋敷も召し上げられて、それこそ裸になって住居を追われなくてはならない。江戸時代前期の浪花商人の代表が淀屋であり、その闕所になった豪商の筆頭が淀屋だ。淀屋といえば世に名高いのが淀屋辰五郎だが、正確にいえば淀屋の家系図に辰五郎という人物はない。したがって、一般的に通り名となっている辰五郎は俗称ということになる。
 現在、大阪市役所のある御堂筋の少し南に淀屋橋が架かっているが、これこそ淀屋を記念したもので、常安町の地名もまた淀屋常安からきている。このように町名や橋の名になって淀屋の名が残っているのは、現在の中之島をつくり、大阪の中心部を砂州から陸地として開墾したのがこの淀屋だからだ。
淀屋の屋敷は表は北浜に、裏は梶木町(現在の北浜四丁目)に及び、東は心斎橋、西は御堂筋に至るという広大な地域を占めていて、敷地にしておよそ2万坪を所有していたという。そこに百間四方の店を構えていたというから、すごいスケールだ。 
 淀屋のルーツは山城国で岡本姓を名乗る武士の出身だった。豊臣秀吉の世になって大坂に移り住んだ。十三人町(大川町)に居を定めた常安は、淀屋と称して材木を商っていた。大坂冬の陣に際して、時代の趨勢を読む先見の明があったからだろうか、常安は関東方に味方、積極的に協力した。その褒美として徳川家康は、常安に八幡の山林地三百石と朱印を与えた。そのうえ帯刀を許され、干鰯(ほしか)の運上銀をもらえることになった。
また彼は大坂冬夏の陣で、各所に散乱している死体を片付けて鎧、兜、刀剣、馬具などの処分を任せてもらった。この戦場整理で、彼は巨富をつかんだ。徳川方に賭けた彼の狙いは見事に的中して、多くの権益と利益を得たばかりか、戦後の大坂で大きな発言権を持った。彼は全国の標準になるような米相場を建てたいと願い出て許された。功労者淀屋常安の願い出でなかったら、あるいは許されなかったかもしれない。こうして諸国から集まってくる米は、常安の邸で品質、数量に従って相場を建てられることになった。それはいわば全国の米を一手に握ったようなもので、彼は莫大な利益を得た。
彼には三男二女があった。淀屋の系図でみると、長女が婿養子をもらっている。この養子を長男としていたので、実子の三郎右衛門が次男ということになっている。この言堂三郎右衛門が古庵と号し、淀屋橋屋の祖となった。ただ代々、三郎右衛門と称し、古庵と号したといわれ、まぎらわしい。二代目は父が築いた財産と稼業を基礎として、さらに富を増やしていった。元和8年に魚市場、慶安4年に青物市場をそれぞれ支配下に治め、三大市場を一手に握った。こうして二代目は日本一の富商となった。
二代目には実子がなく、そこで弟五郎右衛門の長男、箇斎を養嗣子として迎え、三代目三郎右衛門を名乗り、淀屋の身代と事業を継いだ。ただ、この三代目にはさしたる業績は伝わっていない。箇斎の子、重当が四代目だ。ここまでは父祖の業務と身代を何とか無事に守ってきたが、重当の子の五代目三郎右衛門の時に、あまりに驕奢(きょうしゃ)が過ぎるというので、お上のお咎めを受けて遂に闕所になってしまった。
それは宝永元年(1704)2月、財政に行き詰まった幕府が発した質素倹約令に反するというものだった。初代常安の時代は、徳川将軍とあんなに親密だったのに、五代目ともなると全く疎遠になっていた。と同時に淀屋が大坂商人本来の律義さと節約の精神を忘れ、あたかも大名にでもなったかのように驕り高ぶっていたことに天罰が下されたともいえよう。
初代なら集めた富の魅力を、一人でこっそり楽しんだだけで、世間に見せびらかすようなバカな真似はしなかっただろう。淀屋の闕所によって淀屋からカネを借りていた諸大名は借金棒引きとなり、助かったことはいうまでもない。また、この結果、淀屋の莫大な財産はこれを没収した幕府の所有物となった。だから、淀屋の闕所はそれが狙いだったともいえる。

(参考資料)邦光史郎「日本の三大商人」

 

 

 

 

銭屋五兵衛「『海に国境はない』を実践、海の百万石を実現した海商」

銭屋五兵衛「『海に国境はない』を実践、海の百万石を実現した海商」
 文化6年(1809)6月、加賀藩主前田斉広が招いた学者、本多利明は「経世済民」論を説く中で「海に国境はない」と明言した。この言葉は、39歳から廻船業に乗り出した銭屋五兵衛が持ち前の決断力と実行力で、次第に海運界で頭角を現し、その全盛期には藩の枠を越え、国を越えた貿易に乗り出す際、常に意識していたことだった。
 本多の論旨はこうだ。経済という言葉は元々「経世済民」の四文字から取られたもの。経世済民というのは、世を整え民を救うという意味だ。換言すれば仁政を施し、困窮農民を救うということだ。そのためには日本の各地域でできる産物を、地域同士で交換する必要がある。それには陸、海を含め交通が滑らかでなければならない。
ところが、現実は二百数十の国々(藩)があり、境を設けている。海はさらにひどい。国を閉じている(鎖国)ため港に外国の船が入ることができないし、日本の船が外国に行くこともできない。しかし本来、海に国境はない。日本の土地には限りがある。日本に住む万民の需要を日本の産物だけで満たそうとしても無理だ。やはり外国から産物を輸入しなければならない。日本もこの際、思い切って大船をつくり外国と交易を始めるべきだ。
 本多の「経世済民」論に深い感銘を受けた五兵衛は、加賀藩執政奥村栄実と交流を重ねて得た前田家御手船鑑札を武器に、業容を飛躍的に拡大。前田家から年々強いられる金銀調達(=損失)をはるかに上回る利益を得た。江戸、大坂、兵庫、長崎、新潟、酒田、青森、弘前、松前、箱館などに大規模な支店を置き、津軽の鯵ヶ沢、田名部、伊豆の下田、戸田、越後柏崎、越前三国の要地に出張所、代理店を設け、その数34カ所に上った。嘉永4年(1851)ごろ、五兵衛の持ち船は千石船クラスの船が10艘、五百石以上が11艘など大小合わせて200艘を超えたという。
 全国の取引先は当時の豪商を網羅していた。江戸の松屋伝四郎、京都の太物問屋近江屋仁兵衛、万屋林兵衛、大坂北堀江の加賀屋林兵衛、安達町の炭屋安兵衛、兵庫の北風荘右衛門、青森の山本理右衛門、越前武生の金剛屋次郎兵衛、越中伏木の堀田善右衛門、越後柏崎の牧口家、酒田の本間家などだ。
彼は西廻り航路、東廻り航路のいずれも利用し、藩際貿易により巨利を得た。蝦夷地の海産物を江戸、大坂へ運送。幕末には江差3000軒といわれる商家のうち、1500軒は加賀衆だった。蝦夷随一の豪商村山伝兵衛も能登出身だ。彼の蝦夷地における商品仕入れが順調に行われたのは、現地加賀衆の協力が得られたためだった。全国諸藩の商人たちは、加賀百万石の前田家御手船鑑札を見ると五兵衛を信用し、どのような信用貸しにも応じるというわけだ。
加賀百万石の藩船を駆使しての信用力を背景に、幅広く海外と密貿易していたとの例証がある。オランダ語などを話せ、絵画、彫刻、算数、暦学、砲術、馬術、柔術なども究めたという通称大野弁吉とめぐり合い、伝承を含めて記すと、五兵衛は朝鮮東方近海の竹島(鬱陵島)でアメリカ捕鯨船と交易。樺太へも進出し、山丹人を相手に家具類を売り、現地の産物を仕入れ、大坂で売却していたという。
またロシア沿海州の港へ米を運送し、毎年2万石を売却していた。この事実は五兵衛の死後、嘉永6年(1853)に長崎へ入港したロシア使節プチャーチンにより日本側にもたらされた。勝海舟も「銭五(銭屋五兵衛)の密貿易なんていうことは、徳川幕府ではとっくに分かっていたけれども、見逃していたのだ」と言っている。
このほか、五兵衛は豪州南部のタスマニア島に足跡を印していたという話もある。海外に限らず、藩を越えての交易としては薩摩藩領近海での例がある。五兵衛の持ち船が、薩摩南西端の坊津湊へ風待ちのためしばしば入津したことは、現地でもよく知られていることだという。坊津は薩摩藩島津家が密貿易に利用した湊だ。
巨万の富を得た銭屋も奈落に落とされる時がくる。79歳の五兵衛が晩年、子孫の繁栄を願って試みる最後の大事業、河北潟干拓工事で投毒容疑をかけられ、逮捕されてしまう。そして藩の手で、巨大な財産は全部没収された。そのうえ五兵衛は執拗な拷問の果てに、嘉永5年(1852)80歳で牢死し、息子の要蔵は磔になる。銭屋は徹底的な弾圧を受けたわけだ。
 銭屋の先祖は武士だった。小岩を姓とし、前田利家の家来で舟岡山城主高畠石見守定吉に仕えていたが、善兵衛の代に関ケ原の合戦後、帰農して能美郡山上郷清水村に住んだ。善兵衛の子吉右衛門のときに金沢に移住し、さらに寛文年間に宮腰に引っ越して質屋と両替商を始め、それまでの清水姓を捨て、銭屋を称するようになった。それから徳兵衛、市兵衛、三右衛門、五兵衛…と続く。この五兵衛は、ここで取り上げた五兵衛の祖父である。

(参考資料)南原幹雄「銭五の海」、津本陽「波上の館 加賀の豪商・銭屋五兵衛の生涯」、童門冬二「海の街道」、同「江戸の賄賂」、日本史探訪/「銭屋五兵衛 獄死した豪商の雄大な夢」、安部龍太郎「血の日本史 銭屋丸難破」、邦光史郎「物語 海の日本史」

三野村利左衛門 明治動乱期、三井財閥草創期の舵取りを担った大番頭 

三野村利左衛門 明治動乱期、三井財閥草創期の舵取りを担った大番頭 
 三野村利左衛門は幕末から明治の初期の激動期、天下の富豪が相次いで倒れていく中、三井家を襲った幾多の窮地を救った大番頭で、影の功労者だ。
 利八と名乗った彼の前半生は霧に包まれている。生地は信濃(長野県)または出羽(山形県)ともいう。いやそうではなく、出羽の浪人を父に、江戸で生まれたとの説もある。だが、いずれも確証はない。両親とも死別し、天涯孤独となった利八が、放浪無頼の生活を続けた後、江戸へやってきたのが天保10年(1839)、19歳の時のことだ。深川の干鰯問屋、丸屋に住み込み奉公。後にその才覚を認められ旗本、小栗家の雇い中間に召し抱えられた。小栗家は先祖が徳川家の縁筋に当たる名家で、禄高は2500石、利八が奉公した頃の当主は小栗忠高だった。この跡を継いだのが、その子・小栗上野介忠順で、後に勘定奉行として名を馳せた人物だ。
 神田三河町の油、砂糖問屋、紀ノ国屋の入婿となり、娘なかと結婚した。利八25歳、なか19歳だった。義父の死に伴い彼は美野川利八を襲名し、紀ノ国屋の財を足がかりに、小銭両替商を開業。これが江戸における筆頭両替商、三井両替店に出入りするきっかけとなる
 当時、ペリーの黒船来航で日本は大きく揺れ動き、豪商三井家も再三にわたり幕府から巨額の御用金を申し付けられ、破産の危機に直面していた。これを拒否すれば、そのしっぺ返しに幕府は三井家に「闕所」(けっしょ=財産没収)を言い渡すことは間違いない。頭を抱えた三井家では減額を嘆願することにした。このとき浮かび上がったのが、出入りの脇両替屋の利八だった。小栗家で信頼をうけている彼なら…と望みを託したのだ。こうして勘定奉行、小栗説得を任された大役だったが、結果は大成功。利八は三井家への御用金は免除、そのうえ幕府が江戸市中への金融緩和政策として行っている、貸付金の取り扱い業務「江戸勘定所貸付金御用」まで貰ってきたのだ。
 こうして三井家重役の絶大な信頼を得た利八は三井家当主、三井八郎右衛門高福に対面を許され、三井家の「三」、紀ノ国屋美野川利八の美野川の「野」、亡き父の養子先の木村の「村」を取り、」「三野村」を名乗り、破格の待遇で三井入りする。利八46歳のことだ。以来、利八は三井両替店の番頭(通勤支配格)として幕末維新の金融争乱の真っ只中を奔走する。
 三野村は、明治新政府の中心は薩長にあるとにらんで、長州の要人に接近、井上馨と組んで新政府の税収や公金の取り扱いの代行を引き受けた。江戸改め東京に日本初の洋風建築を試みて、5階建ての三井組バンクをつくったのも彼の才覚だった。三井越後屋の分離(三越の創立)と、銀行業への進出が実行された。この頃になると、三井の総指揮は三井家当主を頭に戴いた三野村利左衛門に任され、彼は大番頭となった。彼は明治の動乱期の大波に揺れる三井丸のパイロット役を果たしたばかりか、資本主義経済の世の中へ向かって、三井家の針路を決める大事な役目を果たし、三井銀行、三井物産の創設に関わった。

(参考資料)邦光史郎「豪商物語」、三好徹「政商伝」、大島昌宏「罪なくして斬らる 小栗上野介」、小島直記「福沢山脈」

 

角倉了以 高瀬川など日本の水運に力を尽くした京の豪商

角倉了以 高瀬川など日本の水運に力を尽くした京の豪商
 京都市を北から南へ流れる鴨川。これと平行に、その少し西を走る細い1本の運河がある。森鷗外の「高瀬舟」で知られる高瀬川だ。今は高瀬舟の影もないが、鷗外が記したこの高瀬川は370年の昔、河川開鑿に賭けた一人の京都の大商人によって造られた。角倉了以だ。彼は戦国末期から江戸初期に生きた大事業家だが、大堰川(桂川)、富士川、天竜川など、とくに日本の水運に力を尽くした人だ。
 角倉家はもともと吉田姓をとなえ、室町幕府に医師として仕えていた。この一族が発展する貨幣経済の先端、土倉(一種の金融業)として巨大になるのは、了以の祖父、宗忠の代である。角倉家には二つのはっきりした異質の血が流れている。一つは医者としての、もう一つは代々、土倉業を行ってきた商人としての血だ。医師としての家系は、了以の弟、宗恂に伝えられ、彼は医術をもって徳川家康から禄を受けている。了以は実業家、企業家としての血が、非常に色濃く流れていた
 了以が京都の高瀬川を開き「高瀬舟」を走らせるのには、実は他で見た情景がヒントになっており、彼のオリジナルではない。彼が交易品の調達のため倉敷を訪れその際、親戚を伴って岡山に遊びに行った。陽気のいい時期だったので、親戚は彼を近くの高梁川の水遊びに誘った。そこで彼は乗った船の脇を底の浅い船がしきりに行き交いするのを見た。それが、海や平野部の品物を山に運び、山から山の産品を積み下ろしてくる「高瀬舟」だと知る。これが彼に転機を与えた。
 二条で樋口を設け鴨川の水を取り、九条で鴨川を横切り、伏見で淀川に接するという大工事を数期に分けて、“高瀬川開鑿プロジェクト”を計画した。全長10㌔、川幅8㍍、舟入れ9カ所、舟回敷2カ所、工費7万5000両という大工事が完成したのは、慶長19年秋である。この完成によって、大坂から伏見まで三十石船で運ばれた物資は、伏見で高瀬舟に積み替えられ、京の市中に運ばれた。この運河ができたことにより、京都の経済はこれまで以上に潤うことになった。
 上りの高瀬舟を引く綱引きのホイホイという掛け声が、明治の頃まで両岸数㌔にわたり聞こえた。その高瀬舟159艘。運賃は1回2貫500文。うち1貫文は幕府に、250文は船加工代に、残り1貫250文が角倉家に入った。この開通により京の物価が下がったという。
 角倉了以の仕事の特色は公共性の強い土木や海運、異国交易、河川の開鑿だ。そのうえ了以の性格もあって、自ら陣頭に立って仕事の指揮をした。ただ、ここで忘れてはならないのが、息子の角倉与一(素庵と号す)の存在だ。了以と素庵との仲は、年が17歳しか離れていないこともあって、半ば兄弟のような関係だった。家業の中での役割分担で一番重要なことは、幕府との折衝だった。朱印状や河川開鑿許可など外交的な折衝はすべて素庵の仕事だった。だから了以がやった偉大な事業のほとんどが、この親子の共同事業といっていい。
 了以は宇治・琵琶湖間の疎水計画を幕府に願い出た。これは琵琶湖・宇治川間に運河を引くだけでなく、これにより琵琶湖の水位を下げ、6万石ないし20万石の上田を作るという雄大な計画だった。家康も承諾したが、彼はそれを知ることなく、慶長19年(1614)7月12日、世を去った。

(参考資料)日本史探訪/江戸期の豪商「角倉了以 高瀬川を開いた京の豪商」(辻邦生・原田伴彦)、童門冬二「江戸のビジネス感覚」、童門冬二「歴史に学ぶ後継者育成の経営術」、邦光史郎「物語 海の日本史 角倉了以・素庵父子」

浅野総一郎・・・並外れた体力で、廃物利用に目をつけたセメント王

 浅野総一郎は、自ら創設した株式会社の数は浅野セメント(後の日本セメント)はじめ30数社に上り、いまなお設立した会社の数において、わが国最多記録保持者の地位を維持している。
 総一郎は1848年(嘉永元年)、富山県氷見郡(現在の氷見市)で町医者の長男として生まれた。成人して後、事業に手を出し、失敗して養子先を離縁され、明治4年、24歳で借金取りに追われるように京都、次いで東京に出奔した。以後、大熊良三の偽名を使い債鬼の眼を逃れつつ、廃物利用産業に狙いを定め、遂にセメント王と称されるようになった。巨財を掌中にしてから畢生の大モニュメント「紫雲閣」を東京・港区の田町に築いた。巨富を手にしてからも質素、倹約の生活に徹し、好物は汁粉とうどんだけ。晩年も夫婦揃ってセメント工場内に職工たちが履き捨てた下駄を拾い集め、再生利用したといわれる。

 総一郎が手掛けた数多い事業の主柱は、何といってもセメントだ。その頃、セメントは煉瓦と煉瓦をくっつける接着剤程度にしか使われていなかったが、彼はセメントそのものが建築材料として大量に使われる日がくるし、そうあらねばならぬと主張。国の財産を保護するためにも、セメント製造を見限ってはならぬと説いた。

彼が渋沢栄一の引き立てをバックにして、官営セメント工場の払い下げを受け、後年の「セメント王」への端緒をつかんだのは、明治16年、36歳の時だった。この頃の総一郎は、朝は5時からセメント工場に入り、夜は12時過ぎまで。製造も販売もやった。一日、職工たちと一緒にセメントの粉にまみれて働いてから、夜は王子製紙の支配人について簿記を習い、夜更けまでかかって一切の記帳を自分でやった。さらに午前2時にまた起き、カンテラを提げて工場内を見回った。

従業員の気持ちをも引き締めた。出勤時間に背いた者は、懲罰の意味で黒板に名を書き出した。事務員には会計も購買も製品の受け渡しもやらせる。製造係に販売もやらせるといったふうに、一人二役にも三役にも働かせたが、その半面、従業員優遇法として社内預金による積立金制度を設けたりした。

 一日4時間以上寝ると、人間バカになる。20時間は労働すべきだと総一郎は考えていた。そんな彼がとうとう血を吐いた。そこで医師はかれに「あなたは命と金とどちらが欲しいのですか?」と詰め寄った。彼は平然と「命も金も両方とも欲しい」と答えた。医者は苦笑してサジを投げた。
 妻のサクも総一郎に負けず頑張った。彼女は総一郎が竹皮屋を始めた頃、布団を借りていた貸し布団屋の女中だった。総一郎は早朝から夜更けまでのなりふり構わぬ彼女の働き振りに惚れて結婚した。彼女は4人の子持ちになっても、なお工場に出て総一郎を助けた。当時のセメント工場は床土が焼けてくるため、職工たちは下駄を履いて仕事していたが、鼻緒でも切れると、すぐセメントの山の中に捨ててしまう。彼女はそのセメントの中から下駄を拾い、きれいに洗って鼻緒をすげ直し、また職工たちに履かせたという。

 総一郎が「セメント王」になった秘密は、廃物に目をつけた商才にあるが、いまひとつ忘れてはならないのが、並外れた体力だ。60歳を超えても体力はいささかの衰えもみせず、若い頃からの習慣である早朝4時起床、入浴、訪問客との商談、そしてオートミールと味噌汁の朝食を済ませると、6時には飛び出していくという日課を変えなかった。しかも60、70歳になっても性力が旺盛だった。好みの女を見つけると、即座に手を握って離さない。顔の方はどうでもよく、ただ太った女でさえあれば、目の色が変わってしまうくらいだった-との旧側近の懐古談があるほど。まさに絶倫男だったのだ。

(参考資料)城山三郎「野生のひとびと」、内橋克人「破天荒企業人列伝」