平塚らいてう・・・日本の女性解放運動・婦人運動の指導者

 「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である」
これは明治44年(1911)9月に結成された「青鞜社」の機関誌『青鞜』の創刊号に、平塚らいてう自身が書いた冒頭の有名な文章だ。

今日では青鞜社の結成は「女性たちの近代的自我の目覚め」と高く評価されるが、当時、世間は青鞜社に対し好意的な目で見ていたわけではない。近代になったといっても、家族制度は江戸時代までと全く同じ封建的なものだった。これまでと少し変わったことをすると、「女だてらに」「女だから」と世間の冷たい視線にさらされ、攻撃され批判を浴びる。そんな女性蔑視の、既成の家庭道徳なるものを、らいてうらは少しずつ打破しようとしていたのだ。

『青鞜』創刊号の表紙は、らいてうと日本女子大学在学中、テニスのダブルスを組んだ長沼智恵子(後に高村光太郎と結婚)が描いているほか、与謝野晶子(第七回で紹介)も歌を寄せている。この後、5年余り続く『青鞜』の主な執筆者をみると、田村俊子、福田英子(第五回で紹介)、岡本かの子、吉屋信子、野上弥生子、伊藤野枝、山川菊栄、山田わかなどかなり豪華なメンバーだった。

らいてうは大正3年(1914)、画学生で彼女より5歳年下の奥村博と同棲を始める。正式な結婚ではなく、戸籍を入れない同棲だった。ここにも、らいてうの、既成の家庭道徳への挑戦があった。しかし、奥村博の発病、そして長男の誕生と家庭の重みから、編集を若い伊藤野枝に任せ、らいてうは第一線から身を退かざるを得なくなった。奥村との間にらいてうは2児(長男、長女)をもうけたが、従来の結婚制度や「家」制度をよしとせず、平塚家から分家して戸主となり、2人の子供を私生児として自らの戸籍に入れている。

だが、らいてうが抜けてしまっては、やはり青鞜社は成り立たなかった。『青鞜』の1913年2月号に福田英子が寄せた「婦人問題の解決」という文章の中で「共産制が行われた暁には、恋愛も結婚も自然に自由になりませう」と書き、「安寧秩序を害すもの」として発禁処分を受けたのだ。『青鞜』は大正5年、52号まで出したが、財政難で廃刊となり、青鞜社そのものも解体した。

しかし、らいてうはそのまま婦人運動から遠のいてしまったわけではなかった。大正8年(1919)、市川房枝、奥むめおらの協力のもと、自宅を事務所として「新婦人協会」を発足させた。青鞜社がどちらかといえば上流婦人のサロン的文芸サークルの雰囲気があったのに対し、この協会は「婦人参政権」の獲得を目指すという社会運動としてスタートしたところに大きな特徴があった。
らいてうは昭和に入っても活動を続け、婦人消費組合運動を推進し、敗戦後は平和運動にも一定の役割を果たした。

平塚らいてうは東京府麹町区三番町で3人姉妹の3女として誕生。本名の平塚明(ひらつかはる)や平塚明子で評論の俎上に上がることもある。生没年は1886~1971。父の定二郎は会計検査院の院長も務めたエリート官僚であり、彼女自身もお茶の水高等女学校、日本女子大学家政科を卒業。

ふつうならば、そのままいいところにお嫁に行くというのがお定まりのコースだったが、彼女が通っていた英語学校で、教師の森田米松と出会い、その後の人生が大きく変わった。二人は恋に堕ち、すでに妻子があった米松と悩みに悩んだ末、心中未遂事件を起こすことになった。当時の古い家庭道徳からすれば、妻子ある男に恋をし、心中に引きずり込んだのはけしからん、ということになる。既述の通り、彼女が後に青鞜社を組織し、女の自立を呼びかけるようになる原点は、ここにあったと思われる。

(参考資料)小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

福田英子・・・明治から大正時代の婦人解放運動の先駆者

 福田英子は慶応元年(1865)10月5日、岡山藩の右筆、景山確の二女として誕生。本名英。廃藩置県後、失業した父は塾を開いたが、それを手伝っていたのが母の楳子(うめこ)だった。実際には楳子の方が中心になっていたともいわれている。英子は、小さいうちからその楳子に学問の手ほどきを受けた。後年、彼女自身が書いた自伝『妾(わらわ)の半生涯』によると、11~12歳のとき、県令・学務委員らの臨席する試験場において、『十八史略』や『日本外史』を講じたという。母の英才教育の影響があったのだろう。

 小学校を卒業すると同時に、英子は15歳で助教となった。その後、いくつも持ちかけられた縁談をすべて蹴って、当時としては異例の、女教師として経済的に自立する生き方をしている。
彼女の人生が大きく変わる契機となったのは、女性自由民権活動家、岸田俊子との出会いだ。18歳のときのことだ。岡山で演説会があり、そのとき岸田俊子の「岡山県女子に告ぐ」という演説を聴き、自ら自由民権運動に飛び込んでいる。この演説会の後、岡山女子親睦会という団体が結成されると、それに参加し、また女教師だった経験を生かし、蒸紅学舎を開いて働く女性に教育しようとした。そしてその頃、友人の兄で自由党員だった小林樟雄と知り合い、婚約しているのだ。

彼女の人生の転機となったもう一つのできごとは、明治18年の「大阪事件」だろう。大阪事件は朝鮮で起こった「甲申事変」に連動している。朝鮮の独立党が清国寄りの事大党を倒して新しい政府を樹立したところ、清国の手によってあっさり覆されてしまったのだ。これをみた日本の自由党の闘士たちは、独立党を助けようと様々な行動を起こし始めた。その中で最も急進的な動きをしたのが、大井憲太郎らのグループだった。英子もそのグループに加わっていた。

彼女の任務は、朝鮮へ爆弾を運ぶことだった。ところが失敗し、長崎で逮捕されてしまい、それから4年間、投獄されている。実は彼女の人生の転機となったのは大阪事件そのものより、その後の4年間の獄中生活だった。彼女はそこで40代半ばの大井憲太郎に恋心を抱いてしまったのだ。前記のように彼女は小林樟雄と婚約していたのだが…。明治22年(1889)2月、憲法発布の大赦によって、大阪事件の関係者は出獄できることになったが、英子はそのとき婚約者のもとではなく、大井憲太郎のもとに走った。

英子が、大井憲太郎に妻がいることを知っていたかどうかは分からない。妻がいたとしても、自分の愛情のほうが勝つと信じていたのか。彼女は妊娠し、やがて大井憲太郎の子、龍麿を産む。そして、その頃から彼女は大井に対し入籍を迫っている。ところが、そんな英子にとって実に残酷な事件が待ち受けていた。

彼女のもとに一通の手紙が届けられた。宛名は「影山英子」宛てとなっていたが、中身は何と親友の清水紫琴(しきん)宛てだった。大井憲太郎が英子と紫琴の二人に同時に手紙を出したとき、封筒と中身を取り違えたものとされている。紫琴宛の手紙は病院に入院し、大井憲太郎の子を産んだばかりの紫琴に対する見舞いの言葉が述べられたものだった。妻がおり、英子という愛人がありながら、さらに清水紫琴とも関係を持って、子供を産ませている大井憲太郎という男を、このときばかりは英子も許せなかったのだろう。怒り狂った英子は、龍麿を引き取り、大井と手を切ったのだった。

未婚の母、影山英子は福田友作という男と知り合い、結婚する。福田英子になったのだ。まずまず幸せな結婚で次々に3人の子供が生まれた。ところがこの夫には生活力がなく、やがて胸を患い死んでしまう。結局36歳で未亡人となった福田英子はその後、12歳も年下の書生、石川三四郎と同棲し始める。しかし、その石川も「外国へ行く」といって、彼女のもとを去っていってしまった。

こうして彼女は、大井憲太郎の子と、福田友作の3人の子を、女手一つで育てなければならなくなったのだ。こんな状況になれば、普通ならその重圧に打ちひしがれるところだ。事実、彼女も一時は運動から遠ざかる。しかし、やはり自由民権運動の洗礼を受けた“女闘士”だけに立ち直りは早い。堺利彦・美知子夫妻との出会いによって、彼女は新しい思想的潮流としての社会主義に接近していったのだ。

1907年(明治40年)、福田英子が中心となって『世界夫人』という新聞を創刊。これまでの法律、習慣、道徳は、婦人の人格を無視したものであると厳しく批判し、「広く世界の宗教・教育・社会・政治・文学の諸問題を報道し、研究する」とその創刊の目的を宣言している。このほか、彼女は足尾鉱毒事件の田中正造を助け、谷中村の救援活動に全力を投入した。福田英子はまさに、筋金入りの、強靭な精神力を持った闘士だった。

(参考資料)小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

紫式部・・・王朝文学の大作「源氏物語」を書き上げた才女

 紫式部は、この時代としては世界的にも稀有な王朝文学の大作「源氏物語」を書き上げた才女だ。「源氏物語」は現在、世界で20カ国を超える言語に翻訳され読まれている。その高い世界観や人間観察は、後世の文学にも大きな影響を与えたと思われる。

 本居宣長は『源氏物語』を古今東西に並びなき「もののあわれ」の文学として激賞したし、折口信夫はこれを怨霊およびそれへの鎮魂の小説と解した

 紫式部は越前守藤原為時の娘で、生没年は推定974~1014。22~23歳で山城守藤原宣孝と結婚。夫の宣孝は40代で妻妾の多い人だったが、紫式部が父とともに越前に下るとき、後を追いかけそうな情を示したこと、家格、学識の高い立派な男性だったこともあって、20歳以上も年上の宣孝の愛を受け入れたといわれる。結婚して翌年、賢子が生まれ幸せなときを過ごし、どこにでもいるような平凡でかわいい若奥さんだった。

だが、その結婚生活は3年と続かなかった。夫の宣孝が死んで、運命が狂わされてしまう。それ以後、性格がガラッと変わって、物思いにふけり、他人を突き放すような女になってしまうのだ。若奥さんのときは、継子(ままこ)をわが子同様、よく面倒をみたりする優しい面もあったのに、この落差がすごい。

 夫の死後、一条帝の中宮彰子に召されて出仕した。この折の宮中内での見聞、体験を物語の中に散りばめたのが「源氏物語」の作品になったと思われるが、その高い世界観、鋭い人間観察、文明批評はその当時としては驚異的だ。

「源氏物語」は表からみれば光源氏の好色な生活を描いたものだが、裏からみれば源氏が愛した女たちへの六条御息所の怨霊の復讐と、それに対する源氏の側からの鎮魂を、物語を貫く黒い糸としていることは間違いない。

 源氏物語の哀切で美しい世界と正反対なのが「紫式部日記」。清少納言など同時代の女房たちへの底意地の悪い批評、自慢話、思わせぶりなど、ドロドロとした女性の心の内面がうかがえて興味深い。この時代の女性の心情や生活をきちんと理解するには、「源氏物語」と「紫式部日記」の両方を読み解くことが必要だ。

紫式部は教養深くて、おしとやかで、10年足らずで「源氏物語」のような傑作を書いた女性だけに、とても近寄り難いと思われる。だが半面、「紫式部日記」でホンネを吐露した格好で、かえって親近感を持たせている面があるかもしれない。

 「源氏物語」の世界観は、一口で言えば無常観だ。紫式部が無常観に取りつかれたのは、何といっても疫病の蔓延など当時の不安におののく社会情勢がその背景にある。それと最愛の夫をあっという間に失ったからではないかと考えられる。そういう周囲の変化が彼女の性格を変えさせたのだ。無常観は、当時のインテリの最先端の思想で、紫式部はそれを見事に文学に結晶させたのではないか。

(参考資料)永井路子対談集「紫式部」(永井路子vs清水好子)、清水好子「紫式部」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、梅原猛「百人一語」