玉松 操・・・王政復古の勅を起草、「錦旗」をデザインした岩倉具視の謀臣

 玉松操(たままつみさお)は幕末・明治維新期の国学者・勤皇家で、岩倉具視の謀臣として王政復古の勅を起草したことで有名だ。本名は山本真弘(まなひろ)。参議侍従、山本公弘の次男。京都生まれ。生没年は1810(文化7年)~1872年(明治5年)。

 8歳のとき京都・醍醐寺無量院において出家得度し、法名を猶海とした。修行・精進の末、大僧都法印に至る。だが寺中の綱紀粛正を強く主張するなど、僧律改革を唱えたため、反発を買い、30歳で下山。還俗して山本毅軒(きけん)と号し、のち玉松操と改めた。京都で国学者、大国隆正に師事し国学を学んだが、やがて師と対立して泉州に下り、さらに近江に隠棲。のち和泉や近江坂本で私塾を開いた。

 1867年(慶応3年)、門人、三上兵部(みかみひょうぶ)の紹介で、蟄居中の岩倉具視の知遇を受け、その腹心となった。以後、王政復古の計画に参画するなど幕末維新期の岩倉具視と常に行動をともにし、その活動を学殖・文才によって助けた。とりわけ有名なのは、小御所会議の席上示された王政復古の勅を起草したことだ。さらに、玉松は早晩、幕府との交戦があることを予想し、官軍の士気を鼓舞するための「錦旗」のデザインを考案するなど、官軍勝利に貢献した。

 日本の歴史にとって実に奇妙な日がある。1867年(慶応3年)10月13日と14日に全く矛盾する朝廷の勅命が出されているのだ。10月13日には薩摩藩に対して討幕の密勅が出され、同時に長州藩に対して、失われていた藩主の官位を復旧する宣旨が出されている。そして翌14日には長州藩に討幕の密勅が下された。

ところが、この14日には徳川十五代将軍慶喜が提出した「大政奉還」の願いが上表されている。翌日許可された。討幕の密勅というのは、その徳川慶喜を賊と見做し、これを討てという天皇の密命だ。討幕の密勅と大政奉還許可は、朝廷の行為としては全く矛盾する。なぜこんなことが行われたのだろうか?

 実はこの討幕の密勅、玉松操の画策だった。討幕の密勅には・天皇の直筆ではない・副書している中山忠能、中御門経之、正親町三条実愛の3人の公家の花押がない・3人の公家の署名が、すべて同一人の筆ではないか思われる-などから、従来から偽書だという説が強かったのだ。この画策=密勅こそ不発に終わったが、玉松操は討幕へ向けて次々と手を打ち出していく。

 玉松操はたとえ多少の血を流しても、徳川幕府は徹底的に武力で叩き潰さなければならないと考えていた。それだけに玉松にとって、大政奉還の起案者だった坂本龍馬が暗殺され、邪魔者が失くなった感があった。そのため、その後の玉松の行動に弾みがついた。錦の御旗をデザインし、岩倉具視が蟄居していた岩倉村の家に、薩摩藩の大久保一蔵(後の利通)とともに出入りしていた長州藩の品川弥二郎に「宮さん 宮さん…」の軍歌を作詞させ、その歌詞に品川が祇園で馴染みの芸者に節をつけたといわれる。すると、今度は一室にこもって、王政復古の詔勅づくりに取り組み始めた。岩倉を京都朝廷に推しだすためだ。

有名な小御所会議は慶応3年12月9日に開かれた。この日、天皇の命によって、今までの謹慎を解かれた岩倉具視は、自分が主宰する形で小御所会議を招集した。大政を奉還した徳川慶喜の官位と領地を剥奪するという内容を伴う「王政復古の大号令」を出すためだった。会議は騒然となった。だが、西郷隆盛や大久保一蔵らから、文句をいうものがいれば誰にしろ…、と武力行使をほのめかされていた岩倉のすさまじい“熱”が会議を主導、慶喜の官位剥奪、領地没収が決まった。やがて、この決定に憤慨した旧幕臣たちが、鳥羽伏見戦争を起こす。薩長軍は応戦、このとき翻ったのが、玉松操がデザインした錦の御旗だ。この旗によって薩長軍は官軍に変わった。天皇の親兵になった。そして新政府が樹立された。

 王政復古の後は、内国事務局権判事となり、矢野玄道(はるみち)、平田銕胤(てつたね)らと組んで、大学官(皇学所)、大学寮(漢学所)を皇学所への一本化や尊内卑外政策の実施を求めるなど、極めて保守的な立場に立ち、徐々に岩倉らとの距離を深めた。1870年(明治3年)、東京で大学中博士兼侍読(じどく)に任ぜられたものの、新政府の欧化政策に基づいた文教政策を批判して、1871年(明治4年)、官職を辞し京都に帰って隠棲したが、翌年病没した。

(参考資料)童門冬二「江戸の怪人たち」、司馬遼太郎「加茂の水」

前に戻る