徳川綱吉・・・知性派将軍も「生類憐みの令」を出したため“悪役”に

 徳川綱吉といえば、“犬公方”などとも呼ばれ、江戸時代を通じても天下の悪法「生類憐みの令」を出し、一般庶民を苦しめた人物だ。ただ、綱吉自身は大変学問好きだった将軍で、15人を数えた徳川歴代将軍の中でも上位に数えられ、決してバカではなかった。それが、跡継ぎができないことを憂い、母・桂昌院が寵愛していた隆光僧正の勧めで、この悪法を世に出し、まさに“悪役”のレッテルを張られてしまったのだ。綱吉の生没年は1646(正保3)~1709年(宝永6年)。

 徳川五代将軍綱吉は、三代将軍家光の四男。幼名は徳松。母は桂昌院(お玉)。綱吉の正室は鷹司教平の娘信子。側室に瑞春院(お伝)、寿光院、清心院。お手付きに牧野成貞の妻阿久里とその娘の安などがいたという俗説もある。

 綱吉は1651年(慶安4年)、父家光の死後、上野国(現在の群馬県)その他で所領15万石を与えられ、1661年(寛文1年)10万石加増され、館林藩藩主となった。そして、1680年(延宝8年)、兄の四代将軍家綱に継嗣がなかったことから、彼がその養嗣子として江戸城二の丸に迎えられ、同年40歳の若さで家綱が死去したため、幸運にも彼が将軍宣下を受けたものだ。

 1687年(貞享4年)、殺生を禁止する法令「生類憐みの令」が制定された。この法令では綱吉が丙戌年生まれだったため、とくに犬が保護されたが、対象は犬のほか猫、鳥、魚類・貝類・虫類にまで及んだ。当初は生き物に対する殺生を慎めという意味があっただけの、いわば精神論的法令だった。しかし、一向に違反者が減らないため、遂には御犬毛付帳制度をつけて犬を登録制度にし、また犬目付職を設けて犬への虐待が取り締まられることになった。そして1696年(元禄9年)には犬虐待への密告者に賞金が支払われることになったのだ。もう精神論ではなくなってしまった。その結果、一般民衆からは天下の悪法として受け止められ、幕府への不満が高まった。

 綱吉が当時、一般民衆の間で人気を落とした事件がもう一つある。赤穂浪士による吉良邸討ち入りの後処理だ。映画、テレビ、講談などでもお馴染みの「忠臣蔵」だが、周知のとおり江戸城内・松の廊下で吉良上野介に刃傷に及んだ播州赤穂藩の藩主浅野内匠頭長矩の即日切腹と、同藩のお家断絶(取り潰し)だ。大名たるものが裁判や審議を全く受けることもなく、即日処刑されてしまったのだ。異例のことだった。

これに対し、吉良上野介は“お咎め”なし。通常は武家同士の揉め事は「喧嘩両成敗」が相場。この片手落ちの処分に当事者の赤穂藩関係者の“怒り”は当然だが、一般民衆も頭を傾げた。そして、“判官贔屓”にも似た心境になり、赤穂浪士による討ち入りで彼らが上野介の首級を挙げ、主君の恨みを晴らすという本懐を遂げたときは、心の中で拍手喝采したのだ。幕府の処断は間違っていると態度で示したわけだ。明らかに綱吉の判断ミスだ。

江戸時代は改革や事件の後処理など幕閣が判断し方向性を決め、将軍の裁可を仰ぐケースが多い。中にはほとんど筆頭老中や側用人に任せっきりであった将軍もいた。しかし、強烈なリーダーシップを発揮した将軍もいたのだ。将軍の権威が最高となったのが元禄時代だ。綱吉は専制独裁君主だった。勅使饗応の日に浅野長矩が刃傷事件起こしたことで、綱吉は激怒。その感情、憤りをそのまま処分に結び付け、独断で全く審議もせずに内匠頭を切腹させてしまったのだ。

 綱吉は戦国の殺伐とした気風を排除して徳を重んずる文治政治を推進。林信篤をしばしば召し出し、経書の討論を行い、また四書や易経を幕臣に講義したほか、学問の中心地として湯島大聖堂を建立するなど学問好きな将軍だった。儒学を重んじる姿勢は新井白石、室鳩巣、荻生徂徠、雨森芳洲、山鹿素行らの学者を輩出するきっかけにもなった。

また、綱吉は儒学の影響で歴代将軍の中でも最も尊皇心が厚かった将軍として知られ、御料(皇室領)を1万石から3万石に増額して献上し、大和国と河内国一帯の御陵計66陵を巨額な資金をかけて修復させている。このほか、幕府の会計監査のために勘定吟味役を設置して、有能な小身旗本の登用へ道を開いている。荻原重秀もここから登用されているのだ。

 ざっと綱吉の事績を挙げてみたが、治世の前半は基本的には善政として「天和の治」と称えられている。「生類憐みの令」がなければ、恐らく彼は賢人、善政を行った将軍として名を残していたことだろう。

 とはいえ、綱吉の場合、女性にはだらしなかった。いや、彼は男色にも精を出した。きっかけは恐らく、綱吉にへつらう側用人・牧野成貞が美女を腰元にして近づけたことだったろう。これはよく知られた話だが、女の味を覚えた綱吉は牧野の妻を江戸城に呼びつけ、それきり自分の妾にした。さらには牧野の娘で、結婚したばかりの新妻に目をつけた。これは一晩か二晩で帰されたが、その夫は切腹してしまう。その新妻も翌年死ぬ。綱吉は男色にも精を出し、彼に愛玩された男女は実に100人を超えたといわれている。とても単なる“女好き”とかいうレベルではない。やはり常軌を逸した部分のある人物だったことは間違いない。

(参考資料)藤沢周平「市塵」、井沢元彦「忠臣蔵 元禄十五年の反逆」、永井路子「歴史のヒロインたち 五代将軍綱吉の母・桂昌院」、白石一郎「江戸人物伝 大石内蔵助良雄」、山本博文「徳川将軍家の結婚」、小島直記「逆境を愛する男たち」

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