藤原俊成女 後鳥羽院歌壇で活躍した新古今時代を代表する女流歌人

藤原俊成女 後鳥羽院歌壇で活躍した新古今時代を代表する女流歌人

 藤原俊成女(ふじわらとしなりのむすめ)は、俊成(通称しゅんぜい)の娘ではなく、養女としていたが、実は孫だ。彼女の結婚生活は長続きせず、妻としての幸せには恵まれなかったが、30歳を過ぎてから後鳥羽院に出仕。後鳥羽院歌壇における俊成女の活躍は目覚しく、新古今時代を代表する女流歌人となった。女流歌人の『新古今和歌集』への入集歌は、式子内親王(しきしないしんのう)に次いで第二位だ。

 藤原俊成女の生没年は不詳。1171年(承安元年)ごろに生まれ、1251年(建長3年)以降に亡くなったと推測される。本名は不詳。実父は藤原盛頼。実母は俊成の娘、八条院三条。1177年(治承元年)彼女が7歳のころ、父は「鹿ケ谷の変」に連座して官職を解かれ、八条院三条と離婚。以後、彼女は祖父・俊成のもとに預けられたらしい。そして、俊成の養女となった。後に歌壇で「俊成卿女」などと称された。現実に『新古今和歌集』などには「皇太后宮大夫俊成女」として収められている。

 少女時代を祖父・俊成のもとで過ごし、20歳のころ、時の政界の実力者、土御門内大臣・源通親(みちちか)の次男、大納言・源通具(みちとも)と結婚した。1190年(建久元年)ごろのことだ。通具との結婚生活は、一男一女をもうけながらも長続きしなかった。1199年(正治元年)夫の通具は、土御門天皇の乳母、従三位典侍(ないしのすけ)按察局(あぜちのつぼね)・藤原信子(しんし)と結婚した。按察局は、通親の養女となって後鳥羽院の後宮に上った宰相君源在子(さいしょうのきみみなもとのざいし=承明門院)の異母妹で、通親を柱とする当時の権勢の中心にいた女房だ。

 夫の通具は父の名代として『新古今和歌集』の5人の撰者の筆頭だったが、藤原定家などは『明月記』の中でしばしば撰者としての見識のなさを記している。通具は、係累を見極め、出世のために何度も結婚・離婚を繰り返した父・通親と同様、出世欲が人一倍強く、人格的に俊成一族とは相容れなかったのだ

 そんな、肌合いの違う夫との以後の結婚生活は、形式的には夫婦関係を解消することはなかったが、俊成女にとって決して幸せなものではなかったようだ。そして、二人の関係は夫の夜離れにつれ、自然離別という状態になっていった。翌年の1200年(正治2年)には母の八条院三条が亡くなり、彼女はいっそう孤独な境涯になった。

 失意の俊成女が、輝きを取り戻すのは30歳を過ぎて、後鳥羽院の女房として出仕してからのことだ。幼い頃から俊成のもとで養育され、磨かれただけに、後鳥羽院歌壇で活躍し始めるのに時間はかからなかった。史料によると、後鳥羽院主催の1201年(建仁元年)八月十五日撰歌合(うたあわせ)が、「俊成卿女」の名の初見で、彼女のいわば「歌合デビュー」だが、その後、後鳥羽院歌壇の多くの歌合に参加している。その歌才ゆえに「俊成卿女」「俊成女」の名誉ある称を得たとみられる。

 「風かよふ寝ざめの袖の花の香に かをるまくらの春の夜の夢」

 歌意は、春の夜明け方、ふと目覚めると、風がほのかに枕元にかよっている。その風は花の香を運んでくるばかりか、はらはらと散る花をさえ袖の上に運んでくる。その花の香に包まれて、果たして目覚めているのか、それとも春夜の夢の中にまだ漂っているのか分からないような、心地よさの中で、すべてが夢の中のようなひとときだ。

 『新古今和歌集』入集歌をみると、祖父・俊成、叔父・定家らの影響はもとより、『伊勢物語』『源氏物語』『狭衣(さごろも)物語』などの古典を縦横に摂取し、技巧的、構成的な作風を展開する最も新古今的な作家の一人といえる。

 「下燃えに思ひ消えなむけぶりだに 跡なき雲のはてぞかなしき」

 歌意は、片思いの苦しさの中で私はこがれ死にすることでしょう。せめて私を荼毘に付す煙なりとも、あの方に知ってもらいたいものだが、その煙さえ空に立ちのぼっては誰のものというしるしもない。悲しいことです。この歌も『狭衣物語』に収められている歌がベースになっている。

 晩年の住まいにちなみ「越部禅尼(こしべぜんに)」「嵯峨禅尼」などとも呼ばれた。家集に『俊成卿女集』がある。俊成女はいま、祖父・俊成と墓を並べ、京都の東福寺南明院に眠っている。

(参考資料)大岡 信「古今集・新古今集」

前に戻る