吉野太夫 関白と豪商が身請けを競った、諸芸を極めた稀代の名妓

吉野太夫 関白と豪商が身請けを競った、諸芸を極めた稀代の名妓

 吉野太夫(よしのだゆう)は江戸時代初期、京都・六条三筋町の遊郭(のち島原に移転)の名妓だった。容姿、芸、人格ともに優れ、当時の同遊郭の「七人衆」の筆頭で、夕霧太夫、高尾太夫とともに「寛永三名妓」といわれる女性だ。

 吉野太夫(二代目吉野太夫)は本名・松田徳子。実父はもと西国の武士とも、関ケ原浪人ともいわれる。生まれは京都の方広寺近くと伝えられる。生没年は1606(慶長11)~1643年(寛永20年)。吉野太夫は京都の太夫に代々伝わる名跡で、初代から数えて十代目まであったと伝えられている。ただ、その職性から、ここに取り上げた二代目以外の人物像については詳細不明となっている。

 松田徳子は幼少のころに肥前太夫の禿(かむろ、遊女の世話をする少女)として林家に抱えられ、林弥(りんや)と称した。1619年(元和5年)、吉野太夫となった。14歳のときのことだ。彼女は利発な女性で、和歌、連歌、俳諧はもちろん、管弦では琴、琵琶、笙が巧みだった。さらに書道、茶道、香堂、華道、貝合わせ、囲碁、双六を極め、諸芸はすべて達人の境にあったという。それだけに、吉野太夫は当時18人いた太夫の中でも頭抜けた存在だった。容姿、芸、人格ともに優れ、才色兼備を称えられた彼女の名は国内のみならず、遠く中国・明まで「東に林羅山、西の徳子よし野」と聞こえているといわれるほど、知れ渡っていたという。

    馴染み客に後陽成天皇の皇子で近衛信尹(のぶただ)の養子、関白・近衛信尋(のぶひろ、後水尾天皇の実弟)や、豪商で当時の文化人の一人、灰屋紹益(はいやじょうえき)らがいた。皇族から政財界、文化人まで幅広い層の、当時第一級の人物が、彼女のファンだった。吉野太夫の名を、さらに華やかにし高めたのは、関白・近衛信尋と豪商・灰屋紹益が、彼女の身請けを競ったためだ。結果は、関白を押さえ、灰屋紹益が勝利を収めた。紹益は勝った後、吉野太夫を正妻として迎え世間を驚かせた。1631年(寛永8年)、吉野太夫26歳のときのことだ。

 吉野太夫が、身請けを競って勝った紹益に贈った歌がある。

 「恋そむるその行末やいかならん 今さへ深くしたふ心を」

 一方、迎え入れた紹益は、人気の太夫を娶った嬉しさを、

 「ここでさへ さぞな吉野の 花ざかり」

と詠んでいる。

 吉野太夫は結婚後は、遊女時代の派手さ、きらびやかさとは無縁の質素な暮らしをし、夫を立てて親族との交わりを大切にした。そのため、後世、遊女の鑑(かがみ)として取り上げられる逸話も多い。 十余年の結婚生活の後、吉野太夫は夫・紹益に先立って病没し、京都市北区鷹ヶ峰の常照寺に葬られた。まだ38歳の若さだった。

 毎年4月第3日曜日、吉野太夫を偲んで常照寺では花供養が行われ、島原から太夫が参拝し、訪問客に花を添えている。

(参考資料)松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」

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