右衛門佐局 宮中から請われて大奥に転身し総取締となり京風を入れた才媛

右衛門佐局 宮中から請われて大奥に転身し総取締となり京風を入れた才媛

 右衛門佐局(うえもんのすけのつぼね・えもんのすけのつぼね)は江戸時代前期、常盤井局と称し、天皇の中宮に仕えていたが、才智あふれる美女だったために、請われて江戸へ下向。第五代将軍・徳川綱吉の御手附中臈(おてつきちゅうろう)となり、この右衛門佐局と名を改めたのだ。公家の姫君で才色兼備の彼女は、江戸城の大奥に京風の雅(みやび)をもたらしただけでなく、江戸の文化・文芸にも大きな貢献をなした。

 右衛門佐局は、藤原北家道隆の流れ、坊門家の支流にあたる水無瀬中納言氏信の娘として京で生まれた。生没年は1650(慶安3)~1706年(宝永3年)。初め後水尾院に出仕し、後、第百十二代霊元天皇(在位1663~1687年)の中宮・新上西門院に仕えて常盤井局と称した。当時、宮中随一の才媛と呼ばれ、才智あふれる美女だったため、第五代将軍綱吉の御台所・鷹司(たかつかさ)信子に請われて江戸の下向することになったのだ。1684年のことだ。

 綱吉の御台所・信子は学問の相手として、『源氏物語』『古今和歌集』などの講義もできる常盤井局を招いたのだが、真意は別にあった。御台所は綱吉との間で子に恵まれず、夫・綱吉の気持ちが側室・お伝の方に移っていたことが、その背景にあった。つまり、子を生す生さぬという問題にとどまらず、大奥の勢力争いにも通じる事態となっていたのだ。そこで御台所は叔母の新上西門院に訴えて、才色兼備の彼女が選ばれたというわけだ。御台所の狙いはピタッとあたった。学問を好むという部分も少しはあったろうが、むしろその雰囲気を愛した綱吉は、たちまち公家の姫君の魅力の虜となった。常盤井局は将軍家の御手附中臈となり、名を右衛門佐局と改めた。そして、大奥に京風の雅をもたらしただけでなく、江戸の文化・文芸にも大きな貢献をなした。

 1689年(元禄2年)、北村季吟、湖春父子を召し出し、初代歌学方(かがくかた)としたのも右衛門佐局の推挙によるものだ。翌年、住吉具慶(広澄)が土佐派絵所を開いて、江戸に土佐派が確立したのは彼女の功績だ。後に、右衛門佐局の権勢に対抗するために、綱吉の生母・桂昌院によって招かれた大典侍(おおすけ)局(清閑寺大納言煕房の娘)が、能・狂言役者たちを江戸に呼び寄せたことともあわせて、京風化の進展が江戸の文化史上に新たなページを加えるようになった、格好の契機となった。

 右衛門佐局は残念ながら、将軍生母とはならなかった。1691年(元禄4年)懐妊したが、対抗勢力のお伝の方の依頼を受けた護持院・隆光の呪詛で流産したと伝えられる。翌早春、吹上御苑で催された観梅の宴の際、右衛門佐局が、

 「御園生(みそのふ)にしげれる木々のその中に ひとり春知る梅のひと本」

と詠み、これを賞した綱吉に「梅が枝に結び付けよ」と命じられ、踏み台に登ったときに、目が眩んで倒れた。それがための流産だった。

 右衛門佐局、御手附ながら事務方の最高位の大奥総取締の役に就いた。三代将軍家光の側室の「お万の方」の例に倣ったものだが、より実質的な役割だったといえよう。大奥という職場で仕事をしたキャリアウーマンという意味では、むしろ春日局に近い実績を残した女性だった。 

(参考資料)松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」、朝日日本歴史人物事典

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