与謝野鉄幹:雑誌『明星』で浪漫主義時代の明治文壇を主導した歌人

与謝野鉄幹 雑誌『明星』で浪漫主義時代の明治文壇を主導した歌人

 与謝野鉄幹は雑誌『明星』を創刊し、浪漫主義時代の明治文壇を主導した歌人であり、詩人だ。自然主義興隆後は声望が凋落したが、才能豊かな人物だった。鉄幹の生没年は1873(明治16)~1935年(昭和10年)。

 与謝野鉄幹は京都府岡崎(現在の京都市左京区)に与謝野礼厳(れいごん)の四男として生まれた。本名は寛、鉄幹は号。与謝野晶子の夫。生家の寺の没落に伴い、寛は少年時代から他家の養子となり、大阪、岡山、徳山と転住し、世の辛酸をなめた。しかし、一時代の頂点を極め、自然主義興隆後、歌人としての声望は凋落したものの、鉄幹は40代半ば以降、慶應義塾大学教授、文化学院学監を務めた。寛の父・礼厳は西本願寺支院、願成寺の僧侶。父は庄屋の細見家の次男として生まれたが、京都府与謝野郡(現在の与謝野町字温江)出身ということから、明治の初めから「与謝野」と名乗るようになったという。正しい姓は與謝野。母は初枝、京都の商家の出だ。

 1863年(明治16年)、与謝野寛は大阪府住吉郡の安養寺の安藤秀乗の養子となり、1891年まで安藤姓を名乗った。1889年(明治22年)、西本願寺で得度を受けた後、山口県徳山町の兄照幢の寺に赴き、その経営になる徳山女学校の教員となり、同寺の布教機関紙『山口県積善会雑誌』を編集。そして翌1890年(明治23年)鉄幹の号を初めて用いた。さらに1891年養家を離れて、与謝野姓に復した。寛は山口県徳山市(現在の周南市)の徳山女学校で国語の教師として4年間勤務したが、女子生徒、浅田信子との間に問題を起こし、退職。このとき女の子が生まれたが。その子は間もなく死亡。次いで別の女子生徒、林滝野と同棲して一子、萃(あつむ)をもうけた。

 1893年(明治26年)、寛は上京し、落合直文の門に入った。20歳のときのことだ。同年、浅香社結成に参加。「二六新報」に入社。1894年(明治27年)、同紙に短歌論『亡国の音』を連載、発表。旧派の短歌を痛烈に批判し、注目された。1896年(明治29年)、出版社、明治書院の編集長となった。そのかたわら跡見女学校で教鞭をとった。同年7月歌集『東西南北』、翌1897年(明治30年)歌集『天地玄黄(てんちげんこう)』を世に出し、その質実剛健な作風は「ますらおぶり」と呼ばれた。

 1899年(明治32年)寛は東京新誌社を創立。同年秋、最初の夫人、浅田信子と離別し、二度目の夫人、林滝野と同棲した。1900年(明治33年)、『明星』を創刊。北原白秋、吉井勇、石川啄木らを見い出し、日本近代浪漫派の中心的な役割を果たした。1901年(明治34年)鳳晶(与謝野晶子)と結婚。短歌革新とともに、詩歌による浪漫主義運動展開の中心となり、多くの俊才がここに集まった。以後、『明星』の主宰者として後進の指導にあたるとともに、詩歌集・歌論集を出版した。歌は雄壮で男性的だった。1911年、渡欧しパリに滞在。1913年(大正2年)パリから帰国。1919年(大正8年)~1932年(昭和7年)、慶応大学教授を務め、国文学および国文学史を講義した。また、1921年(大正10年)、西村伊作らと文化学院を創設している。

 鉄幹の最後の主宰誌『冬柏(とうはく)』(1934年10月号)に掲載された「四万(しま)の秋」より一句紹介する。

 「渓(たに)の水汝も若しよき事の 外にあるごと山出でて行く」

 これは四万温泉に旅した折、そこで見た四万川渓流を歌ったものだ。秋の歌だが、新春にふさわしい風趣もある。渓流の清冽な若々しさを讃えつつも、若さの持つ、定めない憧れ心を揶揄してみせることも忘れない。鉄幹自身そういう若さを最もよく知り、生きた人だった。軽やかだが思いは深い。半年後の1935年3月に彼は亡くなっている。

 最後に、鉄幹のよく知られた代表作『人を恋ふる歌』の一節を記しておく。

 「妻をめとらば才たけて 顔(みめ)うるはしくなさけあり 友をえらばは書を読みて 六分の侠気四分の熱」

(参考資料)渡辺淳一「君も雛罌栗(こくりこ) われも雛罌栗(こくりこ) 与謝野鉄幹・晶子夫妻の生涯」、大岡 信「名句 歌ごよみ 冬・新年」

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