出雲阿国・・・歌舞伎の始祖 大スター兼プロデューサー

 出雲お国の出自は諸説あり、詳しくは分からない。出雲の生まれで、父は出雲大社に召し抱えられていた鍛冶職人。お国は大社の巫女だったともいわれている。歌舞伎の歴史をみると、1603年に出雲お国が京都の五条で舞台掛けしたのが始まりとされる-とある。お国は三百数十年前に亡くなったが、歌舞伎の始祖といえるのだ。

 安土・桃山時代から徳川の時代へ移るとき、出雲大社が勧進のため、お国たちを京へ上らせた。勧進とは寄付募集のことで、お国たちは神楽舞を舞ったりして人々の喜捨を仰いだ。このとき田舎からやってきたお国は、信長、秀吉らが天下を握った時代の、自由奔放で生き生きとした息吹きを感じ、神楽舞や能、幸若舞などが早晩、時代遅れになると判断。一足でも早く新しいものを始めたものが勝つと見極めをつけた。そして、さっさと勧進興行の一座を抜けてしまった。

出雲大社はカンカンになったが、お国は冷静に新しい企画に取り掛かった。彼女はまず女優だけの一座を結成した。「宝塚歌劇」を目にしているいまの私たちには何の新しさも感じられないが、当時としては画期的なことだった。何しろそれまでは演劇も舞いも男ばかり。女役も男がするものと決まっていたのを、彼女は逆手を使ったわけだ。囃し方や道化だけは男が務めるが、二枚目の男はお国をはじめ男装の女が演じた。たちまち好奇の目が集まり、お国一座は大人気を獲得したのだ。300年前のことだ。

お国歌舞伎の凄いところは、彼女はいつも主役の男役を演じ、スター兼プロデューサーだったことだ。今日風に表現すれば、これまで誰もやったことのない新しい演劇、舞踊を考え出すという企画・製作から興行・広告まで、たった一人でやってのけたのだ。舞台も桃山風の小袖をしどけなくまとって、はだけた胸からはキリシタンの金の十字架をのぞかせて-といった、時代の先端をゆく大胆で斬新奇抜なものだったらしい。踊りや芝居も、エロチックな、かなりきわどいものだったようだ。
人気が高くなると、ごひいき筋の客種がよくなるのは今も昔も同様で、お国は方々から引っ張りだこになった。諸大名や将軍家、果ては宮中にも招かれたという。

お国がここまで人気を獲得した最大の要因は、彼女の芸能人としての根性だ。何事もお客様第一。飽きられないように、次から次へと新手を考え出した。その手掛かりとして、お国は強力なブレーンを獲得した。当時の一代の風流男、名古屋山三郎(なごやさんざぶろう)だ。山三郎はイケメンで、少年時代には蒲生氏郷の小姓で男色の相手として有名だったし、槍の名人でもあった。氏郷の死後、多額の遺産をもらって京で気ままな暮らしを始めた。こんな山三郎が、お国の一座のために巨額の金を出し後援しているというだけで、人気を博した。

また、お国は生半可なことではへこたれない、したたかさもみせた。頼みとする山三郎が旅先で、ある事件のために殺されてしまったのだ。彼の妹は、森美作守忠政という武士に嫁いでいたが、山三郎がその領地で森家の家臣と口論したのが災いのもとだった。山三郎の訃報がもたらされたとき、都中の人がお国一座はもうダメだろうと思った。ところが、お国はその直後、敢然と興行の幕を開けたのだ。しかも、驚くことに山三郎の死を題材にした狂言を上演したのだった。山三郎はお国の愛人、との噂もあった。普通なら恋人の死に泣き崩れるところを、二人の経緯を自作自演したのだから、都中の話題をさらった。まさに芸能人のど根性だ。大スターであり、歌舞伎役者・お国の真骨頂ともいえよう。

(参考資料)永井路子「歴史をさわがせた女たち」、杉本苑子「乾いたえくぼ」、有吉佐和子「日本史探訪/出雲阿国」

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