レオナルド・ダ・ヴィンチ:偉人たちの上に聳え立つ万能の天才 

レオナルド・ダ・ヴィンチ ルネサンス期の偉人たちの上に聳え立つ万能の天才 

 レオナルド・ダ・ヴィンチは、西洋絵画史における最大の芸術家であり、独創的な科学者・技術者としてよく知られている。彼は私生児として生まれたが故に、記録によるといわゆる正当な教育を受けていない。この正当な教育を受けていないことと関係があると指摘する見方もあるが、彼は左利きで、多くの鏡面文字で書かれた書面を残している。鏡面文字は鏡に映った文字であり、一見しても何が書かれているのか、容易に判読できない。彼にはその幅広い領域の作品に多くの不明な点があるが、彼がどうしてこの鏡面文字を書けるようになったのか、またなぜ鏡面文字の書面を残したのかなど、謎は多い。

 しかし、彼は絵画はもとより、彫刻、建築、土木はじめ、人体その他の科学技術に通じ、航空についても高い関心を持ち、驚くことに幅広い領域で後世に現実化する、地に足のついた、確実に実現可能な「未来予想図」を数多く書き残している。どうしてそのようなことができたのか。彼は、まさにイタリア・ルネサンス期に出現した、数多くの偉人たちの上に、さらに高くそびえ立つ、万能の天才だった。生没年は1452~1519年。

 レオナルド・ダ・ヴィンチはイタリア北部トスカーナ地方の首都フィレンツェから20km余のヴィンチという小さな村で私生児として生まれた。父はセル・ピエロ・ヴィンチ、母は村娘カテリーナ。家は代々、13世紀以来公証人を務め、暮らしは楽な方だった。父ピエロは当時は独立して、フィレンツェの裁判管区の公証人となっていた。25歳の彼はカテリーナと呼ぶ村娘と恋におち、レオナルドが生まれたのだ。しかし、ピエロはカテリーナと別れ、同じ身分の娘アルビエーラと結婚した。一方、カテリーナもヴィンチ村の農夫に嫁いだ。したがって、レオナルドは父ピエロとカテリーナの”かりそめの恋”によってこの世に生を受けたわけだ。

 父ピエロは才覚があり、その後、着々と地位を築き財産を増やしていったものの、なぜか芸術的才能はほとんどなかった。カテリーナは名もない村娘にすぎなかった。そんな両親から、どうして天才ダヴィンチが生まれたのか、全く謎としかいえない。余談だが、父ピエロは第一、第二の妻とは子をもうけなかったが、50歳の超えてから結婚した第三、第四の妻とは一ダースに近い子女をもうけるほどの絶倫男ぶりをみせた。これに対し、レオナルドは一生を独身で通し、およそ女性とは縁がなかった。

 ところで私生児と聞くと、何か暗い運命を連想しがちだ。が、レオナルドの場合、私生児故に日陰者になるとか、世間からつまはじきされるとかいった心配はなかった。ルネサンス時代のイタリアでは、そういう出生は別に恥辱とは考えられなかったのだ。多くの著名な家門はじめ芸術家にも、なんらかの不純な血筋が入り、あるいは私生児というケースも決して少なくなかった。当時のイタリアでは個人の価値と才能が、他の西欧諸国の法律や習慣よりも幅を利かしていた。ヴィンチ村で幼少期を過ごしたレオナルドは、1466年ごろ画才を認められ、花の都フィレンツェのヴェロッキョの工房で修業することになる。レオナルド14歳ぐらいのときのことだ。このとき仲介したのが父ピエロだった。レオナルドの画才を知った父が、かねがね懇意のヴェロッキョを訪ね作品を見せ、レオナルドの並々ならぬ才能を認めたヴェロッキョが受けいれたからだ。

 ヴェロッキョは優雅で洗練された技巧を示し、フィレンツェ派の頭目の一人で、彫刻家のほか画家、金細工師としても名を成し音楽や数学にも通じる万能人だった。したがって、彼の工房はさながら芸術家養成所の観を呈していた。ここでは顔料の科学的製法、油絵絵具の改良、衣服のひだの研究、青鋳銅造法などの新しい試みが行われ、明暗法や遠近法の研究も進んでいた。この工房には先輩格でボッティチェリ(1444~1510年)らも出入りしていた。フィレンツェ芸術文化の一端を担い、活気に満ちた工房に入ったことは、レオナルドの修業にどれほど寄与したことか、計り知れない。

 レオナルドはヴェロッキョの工房で徒弟としてあらゆる基礎的技能を修め、1472年に徒弟時代を終えて、フィレンツェ画商組合に加わった。しかし、独立は難しく、1478年までは引き続き工房にいて仕事を手伝った。この助手時代にレオナルドは早々と天稟(てんびん)を現した。例えば、1473年8月5日の日付け入りの「風景素描画」だ。故郷ヴィンチ村付近のアルノ渓谷を写生したものと思われるが、右手の断崖絶壁の物凄さ、流れ落ちる滝の勢い、滝つぼの奔流、左手の堡塁(ほうるい)を巡らされた町の佇まい、その間を蛇行する川、遥かに展望される平野の趣きなど、これらすべてがレオナルドの周到な自然観察を示しているのだ。中世の型にはまった風景画、人物の単なる添えものとしての風景ではなかった。

 師ヴェロッキョとの共作と伝えられる「キリスト洗礼図」にも、レオナルドならではの新鮮な手法がみられるのだ。例えば左端の天使の衣服のひだ。レオナルドはこの衣服のひだに特別の関心を払い、多くのデッサンを残している。また、豊かで美しい天使の髪だ。彼は美しい毛髪に異常なまでの愛着を持ち、毛髪美を表現するために工夫に工夫を重ねた。これは、写実的で15世紀の様式に従っているヴェロッキョの天使と比べると、その違いが際立つ。ヴェロッキョはこの絵を描いてからは、自分の本来の領域である彫刻に専心し、絵らしい絵は描いていない。彼は年少の弟子のレオナルドの天分にショックを受けたのだ。

 1482年、レオナルドはフィレンツェからミラノへ移る。30歳のときのことだ。ミラノ公国を治めるスフォルツァ家の当主・ルドヴィーコ・スフォルツァ宛てに、レオナルドは自分が軍事技術者で発明家であることをアピールする自己推薦状を書き、これを受け容れたルドヴィーコに17年間にわたり仕えた。画家・芸術家は当時、低くみられていたため、幅広い才能に恵まれたレオナルドはあえて画家を前面に出さなかったのだ。その後、次々と出される軍事技術上の発明研究命令に応えたレオナルドは、スフォルツァ家当主の信頼を得て、友人扱いを受けるようになった。

 1499年、ルイ12世率いるフランス軍の侵攻でミラノが陥落。やむなくレオナルドは1500年にマントヴァへ、さらにヴェネツィアに、そして暮れにフィレンツェに戻った。1502年8月からレオナルドは、ローマ教皇軍総指揮官チェーザレ・ボルジア(教皇アレクサンデル6世の庶子)の軍事顧問兼技術者として働いた。しかし、8カ月程度でフィレンツェに戻り、アルノ川の水路変更計画やヴェッキォ宮殿の壁画「アンギアリの戦い」(未完)などの仕事に従事した。

 1506年、スイスの傭兵がフランス軍を追い払うと、マクシミリアン・スフォルツァが治めるミラノに戻った。そこで、後に生涯の友人となり、後継者ともなったフランチェスコ・メルツィに出会った。1513~1516年ごろはミラノ、フィレンツェ、ローマをたびたび移動していたと思われる。当時、ローマにはラファエロやミケランジェロが活動していた。ただ、ラファエロはレオナルドの絵を模写し、影響を受けているが、ミケランジェロとの接触はほとんどなかったとみられる。

 1515年に即位したフランス王フランソワ1世は、同年ミラノを占領した。このときレオナルドはボローニャで行われたフランソワ1世とローマ教皇レオ10世の和平交渉の締結役に任命され、フランソワ1世に出会った。運命的な出会いだった。以後、レオナルドはよほどの信頼を得たのか、このフランソワ1世の庇護を受けることになる。1516年からは王の居城、アンボワーズ城に隣接する、フランソワ1世が幼少期を過ごしたクルーの館に招かれ、年金を受けて余生を過ごした。そして3年後の1519年、レオナルドはそのフランスのクルーの館で亡くなった。享年67歳。

 完成したものは極めて少ないが、レオナルドは絶え間なく仕事をした。しかも、前人未到のものばかりだ。芸術分野以外では建築・土木、科学技術などに通じていたが、まだほとんど触れていない人体・解剖学について少し記しておきたい。

 レオナルドが解剖学に興味を持ったのはヴェロッキョの工房にいたときからだが、第一ミラノ時代にかなりの研究が進み、多くのスケッチを残した。絵画を描く前提を通り越して、解剖学そのものが課題となったのだ。1489年には頭蓋骨についての研究を行い、90年代には循環器系の図や縦断面による男女性交図まで描いた。サンタ・マリア・ヌボア病院を利用して老人の死体を解剖し、老人の血管、動脈硬化、肝臓の硬化について克明なノートを書いた。

 第二ミラノ時代はフランス王の保護で生活が落ち着いたので、水力学と並んで解剖学の研究に打ち込んだ。また、ミラノの解剖学教授マルカントニオ・デルラ・トルレに会って教えを受けた。この期には骨と筋肉との運動、胸と胴の器官、心臓および血流、発生などの研究が中心課題となった。

 最後にレオナルドの二大名作について、少し記しておく。

<最後の晩餐>レオナルドがいつごろから描き始めたか、正確には分からない。絵のあるサンタ・マリア・デルレ・グラツィエ修道院はミラノ城の近くにあり、ルドヴィーコ・スフォルツァは1492年に修道院の食堂を改築するようにブラマンテに命じ、この食堂の後壁にロンバルディア派の凡庸な画家モントルファノ(1440~1504年)がキリスト磔刑図を描いた。これは1495年に完成された。そこで食堂の前壁にレオナルドが「最後の晩餐」を描くように命じられたのだ。したがって、制作の開始を1495年ごろと推定できる。

 「最後の晩餐」の主題は周知のとおり、『ヨハネ伝』第十三章第二十一節以下にみえる。イエスが弟子たちのうちの一人が、イエスを裏切ることを告げるくだりだ。この劇的な瞬間は、レオナルド以前にも多くの画家たちによって描かれた。しかし、レオナルドはそれらとは根本的に違った。

 レオナルドは二つの点で伝統から離れた。彼はユダを孤立から取り出し、それを他の人々の列の内に置き、次いでヨハネが主の胸に横たわるというモチーフから解放されている。そして、中央に他の何人とも似ない主宰的人物、キリストを配置し、十二人の使徒を左右にそれぞれ二つの三人のグループを形作った。まさにレオナルドの新機軸だった。中央のキリストはもはや死を覚悟してか、従容としている。これに反して、他の使徒たちはあるいは驚き、怒り、悲しみ、疑っている。実際、レオナルドほど人間心理の表れである、笑う、泣く、怒る、絶望するなどの表情をつぶさに観察した画家はいない。「最後の晩餐」には、この観察眼が見事に結実しているのではないか。

 ところで、西洋絵画史上屈指のこの名画くらい、数奇な運命にもてあそばれたものはない。絵が完成したとき、人々はどんなに感嘆したことだろう。修道院食堂の壁に描かれた横9m、高さ4mの壮大な晩餐図は、色彩といい、明暗といい、構図といい、すべてが画期的だった。だが、その画期的試み故に、修道院食堂の外部条件の故に、さらには後世の放置や破壊の故に、レオナルド畢生の傑作は無残にも損傷されていった。

 元々、修道院は湿地に建てられていたことに加え、壁が硝石を含む石からできていた。そのため、湿気が絵を侵し、画面を傷つけていったのだ。その結果、油絵の微妙な色調とかやわらかな味を台無しにした。その後も16世紀から18世紀にかけて数度にわたる戦火をくぐり、また無能な修正が行われるなど、この名画には全く不似合いな、悲惨な状況に遭遇し続けた。

<モナリザ>モナリザはレオナルドの代表作であるばかりでなく、世界中の人が知っている西洋絵画史上の最高傑作の一つであることはいうまでもない。それでいてなぜか、この絵には不明な点が少なくない。モナ・リザ(リザ夫人の意)は、リザ・ディ・アントニオ・マリア・ディ・ノルド・ジョルディーニという長い名の、ナポリの上流階級出の夫人だ。フィレンツェの富裕な市民フランチェスコ・デル・ジョコンダの三度目の妻となった。それ以外のことは一切分からない。

 レオナルドはチェザレ・ボルジアのもとから戻った1503年初めに、肖像画に着手した。当時24、25歳だったと思われる。マントヴァのゴンザガ侯妃で、当時世界第一等の女性といわれたイザベッラ・デスケの懇願にも応じなかった彼が、「モナリザ」の制作を引き受けたのは、何か特別な理由があったのか。レオナルドにとって夫人が理想の女性と映ったのか、その点も判然としない。ともかく彼は「アンギアリの戦い」制作の合い間にも、「モナリザ」に手を加え、ミラノに赴くまで絵筆を置かなかったし、フランスにも持参したくらいだ。黒いヴェールを被り、眉毛のない顔、横向きの姿勢など、この肖像画ではすべてが中央のモナリザの微笑に集中するといっていい。この微笑が何を表そうとしているのか。その解釈は古来、様々だ。

 いずれにせよ「モナリザ」がレオナルドの創作の頂点を成し、ゴシック初期以来300年にわたって西欧の芸術発展の核心に迫る作品だったことは誰もが認めるところだ。完成作ではなかったが、会心の作だった。この絵はフランスのフランソワ一世が直接レオナルドから買い上げ、以後フランスの所有となった。しかし、度々の洗滌や修理で亀裂が生じ、原作の繊細な描写を消してしまった点が惜しまれる。

(参考資料)西村貞二「レオナルド・ダ・ヴィンチ ルネサンスと万能の人」

立石一真:繚乱期のエレクトロニクス産業の先陣 オムロンの創業者

立石一真 繚乱期のエレクトロニクス産業の先陣切ったオムロンの創業者

 立石一真(たていしかずま)は、現在のオムロンの前身「立石電機製作所」の創業者だ。彼は戦後間もなく米国のオートメーション工場の成功を聞き、一貫してこのオートメーション=自動制御に取り組んだ。その結果、各種関連システムの開発・商業化に成功し、産業史に名を残した。独自のベンチャー哲学を実践、繚乱(りょうらん)期のエレクトロニクス産業の先陣を切った。立石一真の生没年は1900(明治33)~1991年(平成3年)。

 立石一真は、熊本市新町で伊万里焼盃を製造販売する立石熊助、エイの長男として生まれた。立石家は祖父・孫一が佐賀県伊万里の地で焼き物を習得し、熊本に移り住み、「盃屋」を店開きした。祖父は伊万里焼の職人で絵付けがうまく、熊本へ移住して、絵付きの盃製造でかなりの財を成した。父はその祖父の家業を継いだが、商才に欠けるところがあり、家運は傾いていった。加えて、一真が7歳のとき父が亡くなり、立石家の家計は極貧といっていいくらいの水準に落ち込んだ。そのため、一真は新聞配達などをして母親の家計を助けた。この間、弟が亡くなっている。一真の人生の、とくに50歳までの人生で、身内の死者が多く出ていることが一つの特徴だ。

 こうした境遇にありながら、不思議なことに一真は熊本中学、熊本高等工業学校(現在の熊本大学工学部)に新設された電気科に進学しているのだ。極貧の家計の中でどうしてここまで進学できたのか、よく分からない。とにかく一真の前半生は苦難の連続だった。1921年(大正10年)高校を卒業、兵庫県庁に就職した。土木課の技師だったが、1年有余で退職し、京都市の配電盤メーカー、井上電機に就職。この会社で後の制御機器事業のリレーへつながっていく継電器の開発で頭角を現した。継電器は電流や電圧が一定の量に達すると、自動的に電流の通過を止める装置だ。しかし、不景気で希望退職を余儀なくされ、日用品の行商で一家を養った。

 1933年(昭和8年)、一真は大阪市都島区で「立石電機製作所」を創業した。ただ、継電器事業が軌道に乗り始めた途端に大阪の工場が戦災で全壊。京都に本拠を移して再出発した。転機になったのは50歳を過ぎたころ、京阪神地区の経営者の集まりで専門家からオートメーションの話を聞いたときだ。米国には無人で原材料を完成品に仕上げていく工場があるという。「これだ!」と一真はひらめいた。オートメーション分野は本業の継電器技術が生かせる。折しも企業の生産性向上意欲は高まっていた。将来性は十分とみて、販売体制を整えたうえで1955年(昭和30年)、リレー、スイッチなどの関連制御機器を本格的に売り出した。その後は自動券売機、高速道路の交通管制システム、販売時点情報管理(POS)システムなどに手を広げていった。こうして会社の基盤が固まった。

 立石一真は孝雄(長男)、信雄(二男)、義雄(三男)と子供に恵まれた。彼らが証言している父・一真は「とにかく本や新聞をよく読み、驚くほどの勉強家で、無類の新しもの好き」だった。会社の基盤が固まった後は、制御機器分野への半導体利用を思い立ち、手始めにIC(集積回路)、LSI(大規模集積回路)を使った電卓事業に参入した。1959年(昭和34年)、本社があった京都市・御室(おむろ)にちなんで「オムロン」の商標を定め、「八ケタ(電卓)はオムロン」と評判になった。

 1979年(昭和54年)孝雄に社長を譲った。「わがベンチャー経営」「永遠なれベンチャー精神」などの著書に象徴されるように、一真は常に新ビジネスを模索し躍動感ある企業を理想とした。

(参考資料)日本経済新聞社「20世紀 日本の経済人 立石一真」

与謝野鉄幹:雑誌『明星』で浪漫主義時代の明治文壇を主導した歌人

与謝野鉄幹 雑誌『明星』で浪漫主義時代の明治文壇を主導した歌人

 与謝野鉄幹は雑誌『明星』を創刊し、浪漫主義時代の明治文壇を主導した歌人であり、詩人だ。自然主義興隆後は声望が凋落したが、才能豊かな人物だった。鉄幹の生没年は1873(明治16)~1935年(昭和10年)。

 与謝野鉄幹は京都府岡崎(現在の京都市左京区)に与謝野礼厳(れいごん)の四男として生まれた。本名は寛、鉄幹は号。与謝野晶子の夫。生家の寺の没落に伴い、寛は少年時代から他家の養子となり、大阪、岡山、徳山と転住し、世の辛酸をなめた。しかし、一時代の頂点を極め、自然主義興隆後、歌人としての声望は凋落したものの、鉄幹は40代半ば以降、慶應義塾大学教授、文化学院学監を務めた。寛の父・礼厳は西本願寺支院、願成寺の僧侶。父は庄屋の細見家の次男として生まれたが、京都府与謝野郡(現在の与謝野町字温江)出身ということから、明治の初めから「与謝野」と名乗るようになったという。正しい姓は與謝野。母は初枝、京都の商家の出だ。

 1863年(明治16年)、与謝野寛は大阪府住吉郡の安養寺の安藤秀乗の養子となり、1891年まで安藤姓を名乗った。1889年(明治22年)、西本願寺で得度を受けた後、山口県徳山町の兄照幢の寺に赴き、その経営になる徳山女学校の教員となり、同寺の布教機関紙『山口県積善会雑誌』を編集。そして翌1890年(明治23年)鉄幹の号を初めて用いた。さらに1891年養家を離れて、与謝野姓に復した。寛は山口県徳山市(現在の周南市)の徳山女学校で国語の教師として4年間勤務したが、女子生徒、浅田信子との間に問題を起こし、退職。このとき女の子が生まれたが。その子は間もなく死亡。次いで別の女子生徒、林滝野と同棲して一子、萃(あつむ)をもうけた。

 1893年(明治26年)、寛は上京し、落合直文の門に入った。20歳のときのことだ。同年、浅香社結成に参加。「二六新報」に入社。1894年(明治27年)、同紙に短歌論『亡国の音』を連載、発表。旧派の短歌を痛烈に批判し、注目された。1896年(明治29年)、出版社、明治書院の編集長となった。そのかたわら跡見女学校で教鞭をとった。同年7月歌集『東西南北』、翌1897年(明治30年)歌集『天地玄黄(てんちげんこう)』を世に出し、その質実剛健な作風は「ますらおぶり」と呼ばれた。

 1899年(明治32年)寛は東京新誌社を創立。同年秋、最初の夫人、浅田信子と離別し、二度目の夫人、林滝野と同棲した。1900年(明治33年)、『明星』を創刊。北原白秋、吉井勇、石川啄木らを見い出し、日本近代浪漫派の中心的な役割を果たした。1901年(明治34年)鳳晶(与謝野晶子)と結婚。短歌革新とともに、詩歌による浪漫主義運動展開の中心となり、多くの俊才がここに集まった。以後、『明星』の主宰者として後進の指導にあたるとともに、詩歌集・歌論集を出版した。歌は雄壮で男性的だった。1911年、渡欧しパリに滞在。1913年(大正2年)パリから帰国。1919年(大正8年)~1932年(昭和7年)、慶応大学教授を務め、国文学および国文学史を講義した。また、1921年(大正10年)、西村伊作らと文化学院を創設している。

 鉄幹の最後の主宰誌『冬柏(とうはく)』(1934年10月号)に掲載された「四万(しま)の秋」より一句紹介する。

 「渓(たに)の水汝も若しよき事の 外にあるごと山出でて行く」

 これは四万温泉に旅した折、そこで見た四万川渓流を歌ったものだ。秋の歌だが、新春にふさわしい風趣もある。渓流の清冽な若々しさを讃えつつも、若さの持つ、定めない憧れ心を揶揄してみせることも忘れない。鉄幹自身そういう若さを最もよく知り、生きた人だった。軽やかだが思いは深い。半年後の1935年3月に彼は亡くなっている。

 最後に、鉄幹のよく知られた代表作『人を恋ふる歌』の一節を記しておく。

 「妻をめとらば才たけて 顔(みめ)うるはしくなさけあり 友をえらばは書を読みて 六分の侠気四分の熱」

(参考資料)渡辺淳一「君も雛罌栗(こくりこ) われも雛罌栗(こくりこ) 与謝野鉄幹・晶子夫妻の生涯」、大岡 信「名句 歌ごよみ 冬・新年」

与謝蕪村 多芸で芭蕉,一茶と並び称される江戸俳諧の巨匠の一人

与謝蕪村 多芸で芭蕉,一茶と並び称される江戸俳諧の巨匠の一人

 与謝蕪村は江戸時代中期の俳人・画家で、松尾芭蕉、小林一茶と並び称される江戸時代俳諧の巨匠の一人であり、中興の祖といわれる。画壇・俳壇両方で名を成した、類稀なるアーティストであり、絵画的浪漫的作風で俳人として一派を成した。絵画は池大雅(いけのたいが)とともに文人画で並び称された。また、俳句と絵でこっけい味を楽しむ「俳画」の創始者でもある。蕪村の生没年は1716(享保元)~1783年(天明2年)。

 与謝蕪村は摂津国東成郡毛馬村(ひがしなりごおり けまむら、現在の大阪市都島区毛馬町)で生まれた。姓は谷口あるいは谷。「蕪村」は号で、名は信章。通称寅。俳号は他に夜半亭(二世)・落日庵・四明・宰鳥など。画号は春星、謝寅など。「蕪村」とは中国の詩人、陶淵明の詩『帰去来辞』に由来すると考えられている。

 蕪村は20歳のころ江戸に下り、早野巴人(はじん、号は夜半亭宋阿=やはんてい そうあ)に師事し、俳諧を学んだ。1742年(寛保2年)27歳のとき、師が没したあと下総国結城(現在の茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおかがんとう)のもとに寄寓。松尾芭蕉に憧れて、奥の細道の足跡を巡り、東北地方を周遊した。その際の手記を1744年(寛保4年)、雁宕の娘婿で下野国宇都宮(現在の栃木県宇都宮市)の佐藤露鳩(さとう ろきゅう)宅に居寓した際、編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で初めて蕪村を号した。

 その後、蕪村は丹後、讃岐などを歴遊し、42歳のころ京都に居を構えた。このころ与謝を名乗るようになった。45歳ころに結婚し、一人娘くのをもうけた。島原角屋で句を教えるなど以後、京都で過ごした。1770年(明和7年)には夜半亭二世に推戴されている。京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で68歳の生涯を閉じた。最近の調査で死因は心筋梗塞だったとされている。

 蕪村は松尾芭蕉を尊敬してやまなかった。芭蕉が没して22年後に生まれ、俳人であり画家でもあった彼は、幾通りもの芭蕉像を描いた。いずれも微笑を浮かべた温容だ。早野巴人に俳諧を学んだが、書も絵も独学だった蕪村は芭蕉が心を込めたところを一生懸命に描いた。彼自身の体に芭蕉の精神を入れ、自分の心として描いたのだ。その結果、後世に知られる蕪村の俳画は、芭蕉と心を一つにすることで大成したといえる。

 ただ、生涯師につかず、独自に画風を開いていった蕪村は、60歳を超えて才能を開花させた、遅咲きあるいは、晩成型の俳人・画家だっただけに、経済的にはほとんど恵まれなかった。そのため、ほぼ生涯を通して貧乏と縁が切れなかった。この点は、彼が創始した俳画作品にもよく表れている。蕪村の並々ならぬ芭蕉敬慕の思いは、奥の細道図だけで少なくとも10点は描いたことから知れる。絵の修業時代、奥の細道を追体験する遍歴の旅をしているほどだ。蕪村の俳画において絵と俳句は混然と溶け合った。いわば絵で俳諧する世界だ。その頂点にあるのが蕪村の「奥の細道図屏風」や「奥の細道画巻」だ。

 芸術と人間は一体だと考えた蕪村は生来、去俗の人だったという。「もの云えば唇寒し秋の風」と詠んだ芭蕉こそが心の師だったのだ。俗な言葉を用いて俗を離れ、俗を離れて俗を用いる。それが大切だ。これが蕪村の精神だった。蕪村は独創性を失った当時の俳諧を憂い『蕉風回帰』を唱え、絵画用語の『離俗論』を句に適用した天明調の俳諧を確立させた中心的な人物だ。蕪村に影響された俳人は数多いが、とくに正岡子規の俳句革新に大きな影響を与えたことはよく知られ、『俳人蕪村』がある。

 蕪村のよく知られた句には

 「春の海 ひねもすのたりのたり哉」

 「菜の花や 月は東に日は西に」

 「月天心 貧しき町を通りけり」

などがある。

 また、俳画の句に「学問は 尻からぬける ほたるかな」「花すすき ひと夜はなびけ むさし坊」などがある。いずれもこっけい味にあふれた作品だ。

 辞世は

 「しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり」

 蕪村の主な著作は『新花摘』『蕪村句集』『蕪村七部集』『玉藻集』『夜半楽』などがある。 

(参考資料)大岡 信「名句 歌ごよみ 春」、大岡 信「名句 歌ごよみ 冬・新年」、NHK「天才画家の肖像・与謝蕪村」

野口英世 黄熱病研究などで知られる細菌学者で、自身も感染し死亡

野口英世 黄熱病研究などで知られる細菌学者で、自身も感染し死亡

 野口英世は黄熱病や梅毒などの研究で、現代の日本人によく知られている、戦前の日本の細菌学者だ。ガーナのアクラで黄熱病原を研究中に自身も感染して亡くなった。2004年から発行されている日本銀行券の千円札の肖像になっている。野口英世の生没年は1876(明治9)~1928年(昭和3年)。

 野口英世は、福島県耶麻郡三ツ和村三城潟(現在の猪苗代湖)で、貧農の野口佐代助・シカ夫妻の長男として生まれた。名前は清作と名付けられたが、22歳のとき英世に改名した。野口清作は1歳のとき、彼の運命を決めることになった事故(?)に遭う。囲炉裏に落ち、左手を大火傷(やけど)したのだ。幸い命に別状はなかったが、左手に大きな障害が残ってしまった。7歳のとき三ツ和小学校に入学した。この年、母から左手の障害から家業の農作業が難しく、将来は学問の力で身を立てるよう諭された。

 母の言葉を守って勉強に精出した結果、清作は13歳のとき、猪苗代高等小学校の教頭だった小林栄に優秀な成績を認められ、小林の計らいで猪苗代高等小学校に入学した。そして、清作にとって幸運にもハンディキャップ克服への道が開かれる。清作が15歳のときのことだ。左手の障害を嘆く彼の作文が、小林をはじめとする教師や同級生らの同情を誘い、彼の左手を治すための手術費用を集める募金が行われ、会津若松で開業していたアメリカ帰りの医師、渡辺鼎(かなえ)のもとで左手の手術を受けることができたのだ。その結果、不自由ながらも左手の指が使えるようになった。この手術がきっかけで、彼は医師を目指すことを決めたのだ。

 猪苗代尋常高等小学校卒業後、会津若松の渡部鼎の医院の書生となり、4年間医学と外国語を習得。1896年(明治29年)上京、医術開業前期試験に合格。ただちに歯科医、血脇守之助の紹介で、高山歯科学院の用務員となり1897年、済生学舎に入り5カ月後、医術開業後期試験に合格した。翌年、大日本私立衛生会、伝染病研究所(所長は北里柴三郎)助手に採用され、細菌学の道に入った。1899年、アメリカの細菌学者、フレクスナーが来日。その通訳を務めたことを機に渡米を決意した。

 その後、横浜港権疫官補、続いて中国の牛荘(営口)でのペスト防疫に従事した。1900年(明治33年)、血脇の援助を得て渡米し、ペンシルベニア大学のフレクスナーを訪ね、彼の厚意で助手となり、またヘビ毒研究の大家、ミッチェルを紹介された。野口はヘビ毒の研究を始め、1902年フレクスナーと連名で第一号の論文を発表した。1903年デンマーク・コペンハーゲンの国立血清研究所でアレニウスとマドセンに血清学を学び、翌年アメリカに戻り、フレクスナーが初代所長を務める新設のロックフェラー研究所に入所した。1911年(明治44年)、梅毒病原スピロヘータの純培養に成功。世界的にその名を知られ、京都帝国大学から医学博士を得た。この年、アメリカ人女性、メリー・ダージスと結婚した。

 1914年(大正3年)、東京大学より理学博士の学位を授与された。ロックフェラー医学研究所正員に昇進した。野口は何度かノーベル医学賞候補になっているが、この年最初の候補となった。1918年(大正7年)、ロックフェラー財団の意向を受けて、まだワクチンのなかった黄熱病の病原体発見のため、当時黄熱病が大流行していたエクアドルへ派遣された。その後、南米ペルーやアフリカのセネガルなどを訪れ、10年間にわたり黄熱病や風土病研究に携わり、遂にその黄熱病に倒れたのだ。

 野口自身、黄熱病に感染したと認識していなかったのだが、1928年(昭和3年)イギリス領ガーナのアクラのリッジ病院で、51年の生涯を閉じた。遺体はアメリカ・ニューヨークのウッドローン墓地に埋葬された。

(参考資料)小泉 丹「野口英世 改稿」、渡辺淳一「遠き落日」

本田宗一郎 エンジン一代、強烈な個性と独創性で世界を疾駆した人物

本田宗一郎 エンジン一代、強烈な個性と独創性で世界を疾駆した人物

 本田技研(ホンダ)の創業者・本田宗一郎は、エンジンの猛烈な改良・開発熱にとりつかれながら、権威や常識を覆した自由競争の時代に、強烈な個性と独創性で世界を疾駆した人物だ。生没年は1906(明治39)~1991年(平成3年)。

 本田宗一郎は静岡県磐田郡光明村(現在の静岡県浜松市天竜区)で、父・本田儀平、母・みかとの間に長男として生まれた。父は農機具などをつくる村の鍛冶屋だった。もともと農家に生まれたが、手先が器用なことから、15歳のとき袋井の鍛冶屋へ奉公に出、20歳のとき村へ帰って独立した。日露戦争では応召して満州へ行き、復員。27歳のとき、近くの農家の娘で7つ年下のみかと結婚、初めてもうけた子が、宗一郎だった。「宗一郎」と名付けたのは祖父だった。

 本田は1913年、光明村立山東尋常小学校(現在の浜松市立光明小学校)に入学。1922年、二俣町立二俣尋常高等小学校を卒業。東京市本郷区湯島(現在の東京都文京区湯島)の自動車修理工場「アート商会」に入社。同社に6年間勤務し1928年、のれん分けの形でアート商会浜松支店を開業した。1935年、僧学校教員の磯部さちと結婚。1937年、自動車修理工場の業容は順調に拡大、1939年「東海精機重工業株式会社」(現在の東海精機株式会社)の社長に就任。1945年、三河地震により東海精機重工業浜松工場が倒壊。所有していた東海精機重工業の全株を豊田自動織機に売却して退社、「人間休業」と称して1年間の休養に入った。

 1946年、本田は浜松市に本田技術研究所を設立、所長に就任した。39歳のときのことだ。そして1948年、本田技研工業株式会社を浜松市に設立。同社代表取締役に就任。資本金100万円。従業員20人でのスタート、二輪車の研究を始めた。1949年は、本田にとってターニングポイントとなった年だった。この年、後に本田技研(ホンダ)の副社長となる藤沢武夫を、東京の知人に経理を任せられる人物として紹介されたのだ。藤沢は本田より4歳年下で、技術には弱いが、販売や経理には極めて明るかった。そこで、本田は以後、藤沢に経営の一切を任せ、研究・開発に没頭。この役割分担により、職人肌の技術者、本田はカネや販売の苦しみを味わうことなく、才能を存分に発揮し、本来の仕事に没入できたのだ。

 二代目社長の河島喜好は、藤沢さんと出会わず、あのまま本田さんだけでやっていたら、本田技研は10年ももたなかったのではないか-と語っている。また、藤沢と出会わなかったら、本田は浜松の中小企業のオヤジで終わっていたのではないかともいわれている。それほどに、藤沢は稀代の経営の天才ともいわれる手腕を発揮、本田の生涯の分身ともいえる存在だった。こうして二人は本田技研(ホンダ)を世界的な大企業に育て上げたのだ。1973年、本田は本田技研工業社長を退任、藤沢とともに取締役最高顧問に就任した。1989年、日本人として初めてアメリカ合衆国の自動車殿堂入りを果たした。 

(参考資料)城山三郎「燃えるだけ燃えよ 本田宗一郎との100時間」、日本経済新聞社「20世紀 日本の経済人 本田宗一郎」、清水一行「器に非ず」