カテゴリー別アーカイブ: 小倉百人一首1~50

私説 小倉百人一首 No.1 天智天皇

天智天皇

秋の田のかりほの庵の苫をあらみ
       わが衣手は露にぬれつつ

【歌の背景】天皇が農夫の秋の田を刈る前の労苦を思いやって詠まれた歌。ただ、歌の調子は決して奈良時代の万葉調ではなく、平安朝初期のもの。万葉の歌から派生し、天智天皇御製として伝えられてきた間に、平安朝の歌風の“洗礼”を受け、変化したとみられる。

【歌 意】秋の豊かに実った稲を刈り干すための仮小屋は、その屋根を葺いた苫の目が粗いので、そこで夜番をする私の衣の袖はその隙間から漏れ落ちる露に、いつも濡れ通しである。

【作者のプロフィル】第38代の天皇。舒明天皇の皇子。母は皇極天皇。中大兄皇子として、藤原鎌足らと蘇我入鹿をたおし、大化の改新を断行。斉明天皇の崩御6年で都を近江の大津に遷し、翌年即位。在位4年(672)目に46歳で亡くなった。斉明天皇の6年5月8日(陰暦)、初めて水時計を作られた。6月10日(陽暦)を「時の記念日」としているのは、これに基づいている。

私説 小倉百人一首 No.2 持統天皇

持統天皇

春過ぎて夏来にけらし白妙の
       ころもほすてふ天の香具山

【歌の背景】「来たるらし」と「来にけらし」、「ほしたり」と「ほすてふ」との差は万葉調と新古今調との差である。

【歌 意】まだ春だと思っているうちに、いつのまにか春は過ぎて、もう夏が来たようだ。天の香具山では新しい季節のしるしに白い衣を干しているということだ。

【作者のプロフィル】天智天皇の第2皇女で、_野讃良(うののさらら)皇女といった。草壁皇子の母。天武天皇の皇后で、天武崩御後の4年で即位(690)、都を藤原京に遷す(694)。在位7年で文武天皇に皇位をを譲り、太上天皇と尊称された。58歳で亡くなった。

私説 小倉百人一首 No.3 柿本人麻呂

柿本人麻呂

あしひきの山鳥の尾のしだり尾の
       ながながし夜をひとりかも寝む

【歌の背景】枕詞と序を重ねていって「長い」という感じを表現、それを「ながながし夜」で受けて、いかにものろのろした時間の流れを感じさせる。これがまた、ひとり寝の不満を恨めしく訴えており、全体として内容にふさわしい表現となっている。

【歌意】山鳥の尾の、しだれ尾のように長い長い秋の夜を、恋しい人にも会えないで、たった一人で寝ることであろうか。

【作者のプロフィル】生没年、経歴とも不詳。持統・文武朝の宮廷歌人。後世、歌聖といわれた。柿本氏は和爾氏、小野氏の同族とされるが、人麻呂自身は五位以上に進んだ官歴がなく、都では大舎人、地方では四国や石見(島根県)に赴任したことが記録に残っている。

私説 小倉百人一首 No.4 山部赤人

山部赤人

田子の浦に打ち出でて見れば白妙の
       富士の高嶺に雪はふりつつ

【歌の背景】万葉集では「田子の浦ゆうち出でて見ればま白にぞ不尽の高値に雪は降りける」とある。第三句の「ま白にぞ」には「しろたへの」という表現よりも、白さの実感が強く、結句も「雪は降りける」の方が描写が自然で感動も強い。「新古今和歌集」に収録するときか、あるいはそれ以前に、滑らかな口調になってしまったようだ。

【歌意】田子の浦に出て見ると、真っ白な富士の高い峰に雪が積もっている。実にすばらしい眺めだ。

【作者のプロフィル】生没は不明。宮廷歌人。赤人の作歌年代は神亀元年(724)から天平8年(736)までであり、聖武天皇の天平年間まで生存したようだ。赤人の歌は叙景に特徴があり、その整然とした端正な自然描写に秀でている。
この歌は万葉集の中でも最も有名な長歌「天地の 分れし時ゆ 神さびて高く貴き 駿河なる 不尽の高嶺を 天の原 ふり放け見れば 渡る日の 影も隠ろひ 照る月の 光も見えず 白雪も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語りつぎ 言ひつぎ行かむ 不尽の高嶺は」の反歌。

私説 小倉百人一首 No.5 猿丸大夫

猿丸大夫
※伝説の人で生涯は不明。

おくやまに紅葉踏み分け鳴く鹿の
       声聞く時ぞ秋はかなしき

【歌の背景】この歌は『古今和歌集』で「詠み人知らず」とある。なぜ百人一首で猿丸大夫の作となったのか?それは平安中期、第一級の知識人であった藤原公任が猿丸大夫として『三十六撰』に選んだからだ。

【歌 意】人里離れた寂しい山で、散った一面の紅葉を踏み分けるように、山奥に入っていく牡鹿の妻恋いの声を聞くとき、もの悲しい秋がとりわけ悲しく思われる。

【作者のプロフィル】伝説の人で、その生涯は不明。奈良朝末期か平安初期の人と思われる。個人歌集として『猿丸大夫集』があるが、内容は『万葉集』抄出と『古今和歌集』読み人知らずの歌で、これが猿丸大夫と特定できるものは一首もない。

私説 小倉百人一首 No.6 中納言家持

中納言家持
※大伴家持

かささぎの渡せる橋におく霜の
       白さを見れば夜ぞふけにける

【歌の背景】7月7日、七夕の夜、鵲(かささぎ)という鳥が翼を広げて天の川に橋を作り、牽牛・織女の両星を合わせるという伝説がある。寒い冬の夜に仰ぎ見る天の川の寒々とした光と、宮中御殿の階の上の真っ白な霜とが重なり合って、凍りつくような冬の深夜を感じさせる。

【歌意】鵲が天の川に渡すという橋に例えられる宮中の階。そこに降っている霜の真っ白いさまを見ていると、本当に夜も更けてしまったことだ。

【作者のプロフィル】大伴家持。父は旅人。日本古代を代表する名族の嫡流でありながら、奈良後期の大伴・藤原両氏の対立の中で政争に巻き込まれ不遇を繰り返した。それは、とりわけ天平勝宝8年(756)に左大臣橘諸兄が引退し、聖武天皇が崩御後、急速に権勢拡大した藤原氏に抗しきれず顕著になった。止めは早良親王の廃太子事件に巻き込まれたことで、持節征東将軍として陸奥の多賀城の政庁で没した後には、官位剥奪、遺骨の埋葬さえ許されぬ屈辱を受けている。官位は従三位中納言まで進んだ。
  万葉集の最後を飾る代表的歌人。万葉集が幅広い層から、また反政府的な歌を含めて様々な秀歌が収録されているのは、編纂者の家持の存在が大きかったようだ。

私説 小倉百人一首 No.7 安倍仲麿

安倍仲麿

あまの原ふりさけ見れば春日なる
       みかさの山に出でし月かも

【歌の背景】仲麿は唐へ留学生として派遣され、長く唐朝に仕え高位に出世した。しかし、望郷の思いが強くなりしばしば帰国を願い出たが、唐朝の許可が下りなかった。35年後、遣唐使が行ったとき、その一行と一緒に帰朝しようとして明州(寧波)の海辺で唐の友人たちと別れの宴を催した。夜になり、月が非常に美しかったのを見て詠んだのがこの歌。

【歌 意】大空をはるかに眺めやると月が昇っているが、あれは故国の都の春日にある三笠山に出た月と同じ月なのだなあ。

【作者のプロフィル】父の名は安倍船守。元正天皇の霊亀2年(716)、吉備真備、丹治比県守らとともに、玄宗皇帝時代の唐へ16歳で遣唐留学生として入唐。唐に学んだ後、名を仲満また、朝衡と改め玄宗に仕えた。孝謙天皇の天平勝宝4年(752)、遣唐使の藤原清河らが入唐した時、翌年一緒に帰朝しようとして安南に漂流。再び唐に戻り、粛宗皇帝に仕え、安南都護その他の大官に任じられ、代崇皇帝の大暦5年(770、称徳天皇の神護景雲4年)、正月唐で死んだ。70歳。わずか16歳で日本を離れ人生の大半、54年にわたり唐代の中国で過ごした。

私説 小倉百人一首 No.8 喜撰法師

喜撰法師

わが庵は都のたつみしかぞ住む
       世をうじ山とひとはいふなり

【歌の背景】宇治山に庵を結んで閉居している作者が、恐らく庵の場所を尋ねられて、答えて詠んだものと思われる。法師の洒脱な精神が感じられる。

【歌 意】私の庵は都の東南の宇治山にあって、鹿が棲んでいる。そこに濁りのない心境で暮らしている。ところが、口さがない世間の人々は私が世の中を住みづらく思って、隠れ住んでいるなどと噂しているらしい。

【作者のプロフィル】伝記は不明。六歌仙の一人。仁明天皇(840ごろ)から宇多天皇(890ごろ)の人で、京都の東南宇治山に隠遁生活をしていた僧と思われる。

私説 小倉百人一首 No.9 小野小町

小野小町

花の色はうつりにけりないたづらに
       わが身世にふるながめせしまに

【歌の背景】桜の花の盛り、降り続く長雨に、家に引きこもり物思いにふけっているうちに、花の色のあせてしまったことに気づき、同時にわが容色の衰えを嘆いた歌。

【歌意】桜の花はすっかり色あせてしまったことだ。降り続いた長雨のために、家に引きこもって、物思いにふけっているうちに。そして、私の容色も衰えてしまった。恋の物思いに虚しく人生を過ごしていた間に。

【作者のプロフィル】小野小町といえば美人の代名詞として使われるが。その確かな伝記はない。出羽国の郡司小野良真のむすめで、小野篁の孫と伝えられる。
  歌風は情熱的であり奔放。恋に生涯を懸けた美人として、多くの伝説が伝えられている。六歌仙の一人に数えられており、在原業平、僧正遍昭、文屋康秀、凡河内躬恒らと歌を贈答した。

私説 小倉百人一首 No.10 蝉 丸

蝉 丸
※伝説中の人物。

これやこの行くも帰るも別れては
       知るも知らぬも逢坂の関

【歌の背景】逢坂の関は山城国から近江国へ出る道にある関所で、美濃国の不破の関、伊勢国の鈴鹿の関、越前国の愛発(あらち)の関の、いわゆる三関のうち愛発の関に代わって三関の一つになった。のち「関」といえば逢坂を指すほど名高くなった。したがって交通量も多く、都から地方へ、地方から都への人の行き来は激しかったことであろう。ここを往来する人たちの姿を捉えて対句と、掛詞を使い、調子よく歌い上げている。

【歌 意】これがすなわち、都から地方へ行くものも、地方から都へ帰るものも互いに別れては逢い、また知っているものも知らないものも逢うという逢坂の関ですよ。 

【作者のプロフィル】伝説中の人物で、その生涯の確かなことはほとんど分からない。「今昔物語集」では逢坂の関に住む盲人で雑色として式部卿の宮に仕えていた間に聞き覚えた琵琶の秘曲を源博雅に伝授したと語られ、鴨長明の「無名抄」には出家前の遍昭が和琴を習いに関の蝉丸のもとに通ったと伝えるが、博雅と遍昭では時代に隔たりがありすぎ信憑性に欠ける。ただ、それだけに蝉丸が古くから伝承的人物だったことをうかがわせる。