十市皇女「壬申の乱」を戦った大海人皇子を父に大友皇子を夫に 

十市皇女「壬申の乱」を戦った大海人皇子を父に大友皇子を夫とした女性 

 古代、万葉の頃は数奇な運命に導かれるように薄幸の生涯を送った女性は様々いるが、十市皇女(とおちのひめみこ)ほど身を裂かれるような、悲劇的な選択を迫られた女性は極めて少ないだろう。彼女は、古代日本の最大の内乱「壬申の乱」(672年)を両軍の最高指揮官として戦った大海人皇子(おおあまのみこ)と大友皇子を、それぞれ父と夫に持った女性だった。父と夫が戦う事態はまさに異常としか言いようがない。

 十市皇女の動静はほとんど記録に残っておらず、まさに謎だらけだ。生年にもいくつかの説がある。653年(白雉4)や648年(大火4年)など確定しない。没年は678年(天武天皇7年)だ。天武天皇の第一皇女(母は額田王・ぬかだのおおきみ)であり、大友皇子(明治期に弘文天皇と遺贈された)の正妃。

 父の大海人皇子が、兄の天智天皇から大田皇女、鵜野讃良(うののさらら)皇女(後の持統天皇)の2人の皇女を娶ったことから、両者の関係を緊密にする意味も加わって、大海人皇子の方からは妻・額田王との間に生まれた皇女=十市皇女が天智天皇の長子、大友皇子の妻として迎えられた。このことが彼女にとって、冒頭に述べた通り後に大きな悲劇を生むことになった。

 既述のとおり、彼女の生涯は詳らかではない部分が極めて多く断定できないのだが、彼女の人生にとってぜひ記しておかなければならないのが、天武天皇の皇子(長男)、高市皇子(たけちのみこ)との悲恋に終わった恋だろう。高市皇子は天武天皇存命時は皇子の中では草壁皇子、大津皇子に次ぐNo.3の座にあったが、天武天皇が亡くなった後、大津皇子、そして草壁皇子が亡くなるとNo1に昇り詰め、690~696年は太政大臣を務め持統天皇政権を支えた有力な皇子だ。相手としては何の問題もない。したがって、政略結婚として大友皇子のもとに嫁ぐことがなければ、彼女はきっと高市皇子との恋を成就させたのではないか。

 それを裏付けるのが相手の高市皇子の動静だ。高市皇子は詳らかなところは分からないが、実は当時の皇族としてはかなり異例の年齢まで正妃を持たず、独身だったからだ。恐らく高市皇子は愛しい十市皇女を想い続け、妻を迎える気にならなかったのではないかとみられるからだ。まさに相思相愛だったのだ。

 そんな彼女だったからか、大友皇子の正妃としての境遇に心底馴染めない側面があったのか、父母への思慕が勝っていたのか、こんな説が残っている。『宇治拾遺物語』などでは、十市皇女が父・大海人皇子に夫・大友皇子の動静を通報していたことが記されている。大海人皇子にとって、迫りくる娘婿・大友皇子との雌雄を決する決戦「壬申の乱」に至る過程で敵方、近江大津京の情報は喉から手が出るほど欲しかったに違いない。その役割を彼女は主体的に担ったのかも知れない。

 彼女には、その死についても謎がある。詳しい経緯はわからないが、彼女は未亡人であったにもかかわらず、泊瀬倉梯宮(はつせくらはしのみや)の斎宮となることが決まる。通常は斎宮といえば未婚の女性が選ばれるのだが。そして678年(天武天皇7年)、まさに出立の当日、4月7日朝、なぜか彼女は急死してしまう。王権をめぐって自分の父と夫が戦うという、非情の運命を背負わされた女性の悲しすぎるエンディングだ。

 『日本書紀』は「十市皇女、卒然に病発して宮中に薨せぬ」と記されている。7日後の4月14日、亡骸(なきがら)は大和の赤穂の地に葬られた。彼女はまだ30歳前後だ。この不審な急死に対し、自殺説、暗殺説もある。

 1981年、「比売塚(ひめづか)」という古墳の上に建てられた比売(ひめ)神社に、彼女は祀られている。この比売神社は現在、奈良市高畑町の一角にある。

(参考資料)黒岩重吾「茜に燃ゆ」、豊田有恒「大友皇子東下り」

明正天皇 幕府の圧力で退位した父帝の後、7歳で即位859年ぶり 女帝

明正天皇 幕府の圧力で退位した父帝の後、7歳で即位した859年ぶりの女帝

 第百九代・明正(めいしょう)天皇は、徳川二代将軍秀忠の娘、東福門院和子(まさこ)を母に持つ、第百八代後水尾(ごみずのお)天皇の第二皇女で、奈良時代の第四十八代称徳(しょうとく)天皇以来、実に859年ぶりの女帝として即位した。この徳川氏を外戚とする唯一の天皇の誕生を機に、『禁中並公家諸法度』に基づく江戸幕府の朝廷に対する介入が本格化したのだ。ただ、明正天皇の治世中は、将軍家の度重なる強い圧力を嫌って突然退位した前天皇、父の後水尾による院政が敷かれ、明正天皇が朝廷において実権を持つことは何ひとつなかったという。彼女自身、幕府と朝廷=母の実家と父帝の板ばさみとなり、ある意味で悲劇のヒロインだったともいえる。

 明正天皇の幼名は女一宮(おんないちのみや)、諱(いみな)は興子(おきこ)。明正天皇の在位は1629(寛永6)~1643年(寛永20年)、生没年は1624(元和9)~1696年(元禄9年)。奈良時代以来の女帝、明正天皇の誕生は、今日、後水尾天皇による「俄の御譲位」事件として記録されている。父の後水尾天皇から突然の内親王宣下と譲位を受け、興子内親王として践祚(せんそ)。わずか数え年7歳のときのことだ。

 幕府による後水尾天皇への圧力として象徴的だったのが、無位無官の女性=春日局の参内だった。春日局は本名・山崎福、明智光秀の重臣、斎藤利三の娘、応募して徳川三代将軍家光の乳母となった気丈な女性だ。お福は将軍の代参として伊勢両宮に参詣の途次、京都に立ち寄り、参内したいと申し出た。しかし、無位無官の女性が参内するなどいうのは、前代未聞のことだ。そのため、公卿の誰かの子として、禁裏に招かれる体裁をとるということになった。だが、お福は老女なので、養家となるべき相応の公卿が見当たらない。そこで、やむなくとられた手段は、伝奏・三条西実条の姉妹分という扱いだった。ちなみに、春日局とは室町時代の将軍家の乳人(めのと)の称で、このときお福はそれに倣って、「春日局」の称号を許されたのだ。

 こうした体裁を整えたうえでお福は予定通り参内、禁中御学問所で天皇と対面し、西の階(きざはし)近くに召されて勾当内侍(こうとうのないし、長橋局)の酌で天盃(てんぱい)を受けた。『大内日記』によると、このときお福は、後水尾天皇の中宮和子(明正天皇の母)のいる中宮御所で、京都所司代・板倉重宗と落ち合い、そこから伝奏・実条の案内で参内したらしい。いずれにしても、お福は上首尾に天盃を賜り、面目を施したのだ。しかし、地下(じげ、無位無官)の女性が幕府の威光を背に強引に参内したというので、公卿らの憤懣はうっ積した。

 後水尾天皇の退位のきっかけとなった事件として指摘されるのが紫衣(しえ)事件だ。これは幕府の朝廷に対する圧迫と統制を示す朝廷・幕府間の対立事件で、江戸時代初期の両者の最大の不和確執だ。事の始まりはこうだ。幕府は1613年(慶長18年)、「勅許紫衣並 山城大徳寺 妙心寺等諸寺入院の法度」、1615年(元和元年)に「禁中並公家諸法度」を定めて、朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じた。しかし、後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた。

 これを知った徳川三代将軍家光は1627年(寛永4年)、事前に勅許の相談がなかったことを法度違反とみなして、多くの勅許状の無効を宣言し、京都所司代・板倉重宗に法度違反の紫衣を取り上げるよう命じたのだ。この事件をきっかけに、こうした介入に承服できない後水尾天皇は、退位の決意を固めたといわれる。

 幕府には無断で、突然ではあったが、譲位を迫る将軍家の強引な仕儀に屈する形で、後水尾天皇は後継に幼女を据え、退位した。しかし、このことは後を託された明正天皇にとって、きわめて悲しい運命を科されたことをも意味した。それは、古代より天皇となった女性は即位後、終生独身を通さなければならない-という不文律があったからだ。

 この不文律は元来、皇位継承の際の混乱を避けることが主要な意図だった。だが、後水尾天皇はこの不文律を利用し、徳川将軍家に対して反撃に出たのだ。皇室から徳川家の血を絶やし、後世までその累が及ばぬようにするという意図をもって、娘に白羽の矢を立て、明正天皇を即位させたとの見方があるのだ。後水尾天皇は将軍家の、天皇家に対する無礼な振る舞いに立腹、一時的な感情に支配されて退位したように見せながら、実際にはしたたかに計算したうえで明正天皇を誕生させたともいえるのだ。幕府の意向を十分汲みながら、皇室から徳川の血を排除するという、一石二鳥の妙手だったわけだ。事実、後水尾天皇は明正天皇への譲位後も朝廷内においては院政を敷き、引き続き実権は握っていたのだから。院政は本来、朝廷の法体系の枠外のしくみで、「禁中並公家諸法度」ではそれを統制できなかったのだ。

 明正天皇は1643年、21歳で異母弟の後光明(ごこうみょう)天皇に譲位。以後54年間、女性の上皇として宮中にあった。崩御後、古代の女帝、第四十三代・元明(げんめい)、第四十四代・元正(げんしょう)両天皇の一字ずつを取って明正院と号した。

(参考資料)今谷 明「武家と天皇- 王権をめぐる相剋」、笠原英彦「歴

      代天皇総覧」、北山茂夫「女帝」

藤原俊成女 後鳥羽院歌壇で活躍した新古今時代を代表する女流歌人

藤原俊成女 後鳥羽院歌壇で活躍した新古今時代を代表する女流歌人

 藤原俊成女(ふじわらとしなりのむすめ)は、俊成(通称しゅんぜい)の娘ではなく、養女としていたが、実は孫だ。彼女の結婚生活は長続きせず、妻としての幸せには恵まれなかったが、30歳を過ぎてから後鳥羽院に出仕。後鳥羽院歌壇における俊成女の活躍は目覚しく、新古今時代を代表する女流歌人となった。女流歌人の『新古今和歌集』への入集歌は、式子内親王(しきしないしんのう)に次いで第二位だ。

 藤原俊成女の生没年は不詳。1171年(承安元年)ごろに生まれ、1251年(建長3年)以降に亡くなったと推測される。本名は不詳。実父は藤原盛頼。実母は俊成の娘、八条院三条。1177年(治承元年)彼女が7歳のころ、父は「鹿ケ谷の変」に連座して官職を解かれ、八条院三条と離婚。以後、彼女は祖父・俊成のもとに預けられたらしい。そして、俊成の養女となった。後に歌壇で「俊成卿女」などと称された。現実に『新古今和歌集』などには「皇太后宮大夫俊成女」として収められている。

 少女時代を祖父・俊成のもとで過ごし、20歳のころ、時の政界の実力者、土御門内大臣・源通親(みちちか)の次男、大納言・源通具(みちとも)と結婚した。1190年(建久元年)ごろのことだ。通具との結婚生活は、一男一女をもうけながらも長続きしなかった。1199年(正治元年)夫の通具は、土御門天皇の乳母、従三位典侍(ないしのすけ)按察局(あぜちのつぼね)・藤原信子(しんし)と結婚した。按察局は、通親の養女となって後鳥羽院の後宮に上った宰相君源在子(さいしょうのきみみなもとのざいし=承明門院)の異母妹で、通親を柱とする当時の権勢の中心にいた女房だ。

 夫の通具は父の名代として『新古今和歌集』の5人の撰者の筆頭だったが、藤原定家などは『明月記』の中でしばしば撰者としての見識のなさを記している。通具は、係累を見極め、出世のために何度も結婚・離婚を繰り返した父・通親と同様、出世欲が人一倍強く、人格的に俊成一族とは相容れなかったのだ

 そんな、肌合いの違う夫との以後の結婚生活は、形式的には夫婦関係を解消することはなかったが、俊成女にとって決して幸せなものではなかったようだ。そして、二人の関係は夫の夜離れにつれ、自然離別という状態になっていった。翌年の1200年(正治2年)には母の八条院三条が亡くなり、彼女はいっそう孤独な境涯になった。

 失意の俊成女が、輝きを取り戻すのは30歳を過ぎて、後鳥羽院の女房として出仕してからのことだ。幼い頃から俊成のもとで養育され、磨かれただけに、後鳥羽院歌壇で活躍し始めるのに時間はかからなかった。史料によると、後鳥羽院主催の1201年(建仁元年)八月十五日撰歌合(うたあわせ)が、「俊成卿女」の名の初見で、彼女のいわば「歌合デビュー」だが、その後、後鳥羽院歌壇の多くの歌合に参加している。その歌才ゆえに「俊成卿女」「俊成女」の名誉ある称を得たとみられる。

 「風かよふ寝ざめの袖の花の香に かをるまくらの春の夜の夢」

 歌意は、春の夜明け方、ふと目覚めると、風がほのかに枕元にかよっている。その風は花の香を運んでくるばかりか、はらはらと散る花をさえ袖の上に運んでくる。その花の香に包まれて、果たして目覚めているのか、それとも春夜の夢の中にまだ漂っているのか分からないような、心地よさの中で、すべてが夢の中のようなひとときだ。

 『新古今和歌集』入集歌をみると、祖父・俊成、叔父・定家らの影響はもとより、『伊勢物語』『源氏物語』『狭衣(さごろも)物語』などの古典を縦横に摂取し、技巧的、構成的な作風を展開する最も新古今的な作家の一人といえる。

 「下燃えに思ひ消えなむけぶりだに 跡なき雲のはてぞかなしき」

 歌意は、片思いの苦しさの中で私はこがれ死にすることでしょう。せめて私を荼毘に付す煙なりとも、あの方に知ってもらいたいものだが、その煙さえ空に立ちのぼっては誰のものというしるしもない。悲しいことです。この歌も『狭衣物語』に収められている歌がベースになっている。

 晩年の住まいにちなみ「越部禅尼(こしべぜんに)」「嵯峨禅尼」などとも呼ばれた。家集に『俊成卿女集』がある。俊成女はいま、祖父・俊成と墓を並べ、京都の東福寺南明院に眠っている。

(参考資料)大岡 信「古今集・新古今集」

只野真葛 封建社会の束縛・苦難に、力強く生きた女流文学者

只野真葛 封建社会の束縛・苦難に遭いながら、力強く生きた女流文学者

 只野真葛(ただのまくず)は、『赤蝦夷風説考』を幕府に上申した工藤平助の娘、あや子の後の名だ。真葛は、天明から文化・文政の江戸時代中期~後期、家の没落や結婚の失敗などの幾多の苦難を乗り越え、自由で鮮やかな個性に輝く著作を残した。封建社会の束縛に取り囲まれながらも、自分を見失うことなく、一人の人間として力強く生きた女流文学者で国学者だった。只野真葛の生没年は1763(宝暦13)~1825年(文政8年)

 江戸の築地で生まれた只野真葛(当時は工藤あや子)の父は工藤平助。江戸ではかなり名の知れた医者だ。養父の工藤丈庵(くどうじょうあん)以来、伊達家に仕えているが、父は藩侯・伊達重村の命令で還俗し、それまでの周庵(しゅうあん)という医者らしい名前を改めて、平助を名乗るようになっていた。母は同じく伊達藩の桑原隆朝の長女、遊(ゆう)。

 あや子の別号は綾女。工藤綾子または、単にあや(綾)、また「工藤真葛」「真葛子」「真葛の媼(おうな)」とも称された。只野は婚家の姓。あや子の上に生後まもなく死去した子がいたが、実質的には弟2人、妹4人を合わせた7人の長女として育った。「真葛」の筆名は、両親が7人の子供たちを秋の七草の名に因んで呼称していたことに由来し、40歳のころから自ら用いるようになった。

 あや子は父の影響で蘭学的知見にも通じ、ときに文明評論家や女性思想家と評されるときもある。彼女は読本の大家として知られる曲亭馬琴とも親交があった。馬琴に批評を頼んだ経世論『独考(ひとりかんがへ)』、俗語体を駆使して往時を生き生きと語った随筆『むかしばなし』、生まれ育った江戸を離れて仙台に嫁してからの生活を綴った『みちのく日記』など多数の著作がある。

 あや子は幼女の時代から才弾けていて、筆が持てるようになった3歳の頃、すぐ「いろは」が書けるようになったし、『百人一首』も瞬く間に憶えてしまった。父は「あや子はもの憶えがいい」と喜んで、すぐ下の弟とともに、漢籍の素読を授けた。だが、そのうちにあや子に漢文の素読をさせることをやめた。あや子が「どうして?」と訊ねると、父は困ったような微笑を浮かべて「女が四角い文字を憶えると不幸せになるというからな。わしはあや子を不幸せにしたくないのさ」といった。そんな時代だった。

 女はもの知りであってはならない。女は男より賢くなってはいけない。つまり、男女は同等であってはならない。この考え方はあや子の時代から約200年経った第二次大戦まで続いた。18世紀半ばすぎに生きていたあや子は、この封建的規制を不自由なこと、理屈に合わないことと感じた。普通、この時代の女性のほとんどがこの規制の前に、黙って引き下がってしまうところだ。そのことがあや子の個性を裏付けるものといえるかも知れない。

 江戸時代の女性は、様々な社会的制約に取り囲まれていた。あや子=真葛はそれを痛いほど体験しながら、独自の道を開いていった。そして、いつか、封建的な制約を超えた、ユニークな思考を展開させていったのだ。1778年(安永7年)、あや子は伊達藩上屋敷へ奉公に出た。七代藩主・伊達重村夫人、近衛年子に仕えることになった。16歳のときのことだ。1783年(天明3年)、選ばれて重村の息女・詮子(あきこ)の嫁ぎ先、彦根藩の井伊家上屋敷に移ることになった。この井伊直富と伊達詮子の縁談を取り持ったのは、当時の権力者、田沼意次だったという。

 これに前後して父・平助は1781年(天明元年)、『赤蝦夷風説考』下巻を、そして1783年(天明3年)には同上巻を含めすべて完成させた。ただ、1786年(天明6年)工藤家にとって極めて不運なことが起こった。徳川十代将軍・家治が亡くなり、これをきっかけに平助の蝦夷地開発計画に耳を傾けてきた開明派の老中首座・田沼意次が失脚。代わって保守派の松平定信が老中首座に就いたことで、平助の出世の見込みは全くなくなったのだ。

 また、あや子自身も1788年(天明8年)、夫の井伊直富が28歳の若さで病死した詮子のもとを辞し、実家(工藤家)へ戻った。そしてこれ以後、あや子はやむなく工藤家の支柱たらざるを得なくなった。そんなあや子に肉親の死、意に沿わぬ結婚の失敗など、様々な可能性が扉を閉ざしていった。しかし、彼女は決して「人間とはなにか、そして生きるとは?」という問いかけを忘れることはなかった。

 真葛は、二度目に嫁いだ伊達藩士・只野行義のもとで、ようやく「書くこと」によって己れの居場所を見い出すことになり、それは夫の死後も変わらなかった。女流文学者・只野真葛の誕生だった。

(参考資料)永井路子「葛の葉抄(くずのはしょう)」、大石慎三郎「田沼意次の時代」、佐藤雅美「主殿の税 田沼意次の経済改革」

大伴坂上郎女 大伴氏を支え、『万葉集』に84首所蔵の女流最多の歌人

大伴坂上郎女 大伴氏を支え、『万葉集』に84首所蔵の女流最多の歌人

 大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)は、穂積皇子、藤原麻呂、大伴宿奈麻呂(すくなまろ)らに嫁ぎ、後年は氏族の巫女的存在として大伴氏を支えた。額田王以後最大の女流歌人で、『万葉集』に長短歌84首が収められている。これは女性では最多で、全体でも大伴家持、柿本人麻呂に次いで第三位だ。大伴坂上郎女の生没年は不詳。

 大伴坂上郎女は、大納言・大伴安麻呂と石川内命婦の娘。大伴稲公の姉で、大伴旅人の異母妹。大伴家持の叔母。坂上郎女の通称は、坂上の里(現在の奈良市法蓮町北町)に住んだためという。7世後半に生まれ、750年(天平勝宝2年)ごろまで生きた。藤原時代の最後から奈良朝初期に歌を残し、『万葉集』に84首が収められている女流最多の歌人。これに次ぐのが笠郎女の29首だから、その差は歴然としている。

    晩年の穂積皇子に愛され、次いで藤原不比等の四男で京家の祖・藤原麻呂の妻となった。その死別後、異母兄・大伴宿奈麻呂に嫁して坂上大嬢(おおいらつめ)、二嬢(おとのいらつめ)を産んだ。724年(神亀元年)~728年(神亀4年)ごろ宿奈麻呂が亡くなった後、異母兄の旅人を追って大宰府に下向した。帰京後は佐保邸にとどまり、一家の刀自(とじ=家政をつかさどる婦人の称)として、また氏族の巫女的存在として大伴氏を支えた。旅人が亡くなった後は、甥の家持を後見し、家持の歌人としての出発に多大な影響を及ぼすとともに、娘の大嬢をその妻として嫁がせた。

 大伴坂上郎女の歌人としての評価は高い。その題材も相聞歌、祭神歌、挽歌など多岐にわたっている。とりわけ、恋の歌において、即興的・機知的な才を遺憾なく発揮した。

 「夏の野の繁みに咲ける姫百合の 知られぬ恋は苦しかりけり」

 歌意は、夏の野の繁みにひっそりと咲いている姫百合のように人に知られない恋は苦しいものだなあ。

 「千鳥鳴く佐保の川瀬のさざれ波 やむ時もなし我が恋ふらくは」

 歌意は、佐保川の川面を岩ばしるながれのように、私の恋心もまた激しく、とどまることはない。

 「山菅(やますげ)の実ならぬことを我(わ)に寄そり 言われし君はたれとか寝(ぬ)らむ」

 歌意は、山菅が実を結ばないことを、私との仲になぞらえて世間から噂されたあなたは、いまごろどなたと一緒に寝ているのでしょうか。

 「黒髪に白髪(しろかみ)交じり老ゆるまで かかる恋にはいまだ逢はなくに」

 歌意は、黒髪に白髪が混じって、これほど年取るまで、こんな恋にはまだ出逢ったことはありません。

 「恋ひ恋ひて逢える時だに愛(うつく)しき 言(こと)尽くしてよ長くと思はば」

 歌意は、恋して恋して、やっと逢えたときくらい、情け深い言葉をありったけ言い尽くしてください。これからも二人の仲を長く続けようと思うなら。

 「ぬばたまの夜霧のたちておぼほしく 照れる月夜の見れば悲しさ」

 歌意は、夜霧が立ち込めて、ぼんやり照っている月を見ると悲しいことだ。 

(参考資料)松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」

大伯皇女 伊勢神宮の斎宮を務め、非業の最期を遂げた大津皇子の姉

大伯皇女 伊勢神宮の斎宮を務め、非業の最期を遂げた大津皇子の姉

 大伯皇女(おおくのひめみこ)は、天武天皇の皇女で、大津皇子の同母姉だ。673年から伊勢神宮の斎宮(いつきのみや)を務めていたが、天武天皇崩御がこの大伯皇女はもとより、大津皇子を含めた姉弟の不幸を呼ぶ引き金となった。天武天皇病没後の政情不穏な中で、天武の皇后・持統天皇が仕掛けた策謀にかかり、弟・大津皇子が謀反の罪で処断されると、大伯皇女も斎宮を解かれ、表舞台から姿を消した。大伯皇女の生没年は661年(斉明天皇7年)~702年(大宝元年)。

 大伯皇女は斉明天皇の時代、中大兄皇子が実質上、指揮し、百済救援軍を派遣するため天皇家一族が筑紫へ向けて西下した際、その途中、備前国大伯(おおく)(岡山県邑久郡、おくぐん)の海上で生まれたため、そこからこの名が付けられた。「大伯」は「大来」で表記されることもある。大伯皇女・大津皇子の姉弟が、なぜ持統天皇に嫌われ、排除されるのかといえば、二人はいまは亡き、持統天皇の同母姉・大田皇女の子だからだ。

    とりわけ、弟の大津皇子は眉目秀麗で文武両道に優れていたのに対し、持統天皇の息子、草壁皇子は虚弱体質で凡庸だったと伝えられる。そのため、持統天皇にとって大津は息子を脅かす存在だったため、実子・草壁を皇位に就けたいと願う持統天皇の、排除のターゲットとなったのだ。

   歴史に「たら」「れば」をいっても仕方がないのを承知で、あえていえば、成り行きに任せれば、持統天皇誕生の目はなかった。大伯皇女・大津皇子の姉弟の母・大田皇女は二人の幼少時亡くなっているが、もし健在なら当然、大田皇女が皇后となっているはずで、大津が皇太子となり、天武天皇の後継となっていただろう。

 大伯皇女は673年(天武天皇2年)、父の天武天皇によって斎王制度確立後の初代斎王(斎宮)と定められ、翌674年、伊勢国に下向した。わずか13歳のときのことだ。これにも皇后・持統の意向が働いているとみられる。厄介払いされたのだ。都にとどまり、結婚し子をもうけられると、実子・草壁皇子の子の時代にライバルが増えてしまうからだ。以来、彼女は12年間にわたって斎宮を務めた。

686年(朱鳥元年)自分の運命を予感した大津皇子は、伊勢神宮・斎宮のたった一人の姉、大伯皇女に会いに行く。姉弟は久しぶりの、そして最後の別れを惜しんだ。幼くして母を失った二人きりの同母きょうだいの心の結びつきはよほど強かったのだろう。伊勢から都へ帰る大津皇子を見送るときに詠んだ、大伯皇女の歌が次の一句だ。

「わが背子を大和に遣るとさ夜ふけて 暁(あかとき)露にわが立ち濡れし」

10月3日、大津皇子が謀反人として死を賜った後、大伯皇女は11月17日に伊勢神宮・斎宮の任を解かれ退下し、都に帰った。都に戻った大伯皇女が詠んだ歌2首を紹介する。

 「神風の伊勢の国にもあらましを なにしか来けむ君あらなくに」

 歌意は、神様がいる伊勢にいれば良かった。あなたがいない所に帰ったと

て、何になりましょう。

 「現身(うつそみ)の人なる我や明日よりは 二上山を同母弟(いろせ)と

我が見む」

 歌意は、もはや生きているとはいえない私です。明日からはあなたが眠る

二上山をあなただと思って眺める暮らしになります。

 『万葉集』には大伯皇女の短歌6首が収められている。いずれも無残な死を遂げた弟・大津皇子に対する深い愛情を歌いこんだ秀歌だ。これ以後、大伯皇女がどうなったか、分かっていない。結婚もしなかったとみられる。正史には41歳で亡くなったことだけが記録されている。天武朝から持統朝へ移行した途端、手の平を返したように、謀反人に仕立てられた皇子・大津、そしてその姉・大伯皇女の無念さが伝わってくる。

(参考資料)黒岩重吾「天翔る白日 小説 大津皇子」、神一行編「飛鳥時代の謎」