近藤勇・・・ 粘り強く転戦した土方のしたたかさに比べ、潔さが際立つ最期

 近藤勇は農民の子として生まれながら、剣の道を究め天然理心流剣術宗家四代目を継承。幕末、新選組局長、そして甲陽鎮撫隊隊長を務めるまでに出世した近藤には、策謀家と潔さとの両面の“顔”が垣間見られる。果たしてどちらが近藤の実像に近いのだろうか。近藤の生没年は1834(天保5)~1868年(慶応4年)。

 近藤勇昌宜(こんどういさみまさよし)は、農民、宮川久次郎の三男として武州多摩郡上石原村(現在の東京都調布市野水)で生まれた。幼名は勝五郎、のち勝太。慶応4年から大久保剛、のち大久保大和(おおくぼやまと)と名乗った。末っ子だったため父、久次郎の愛を一身に受けて育った。父から「三国志」「水滸伝」などの英雄伝を読み聞かせてもらい、これらを通して勝五郎は忠孝の思想的観念を、幼い胸の中に芽生えさせていったとみられる。

宮川勝五郎は1848年(嘉永元年)、兄二人とともに近藤周助の天然理心流道場・試衛館に入門した。15歳のときのことだ。彼は一番年少にもかかわらず、けいこには一番熱心だった。入門後8カ月で近藤周助より天然理心流の目録が与えられた。それだけ、周助も勝五郎の剣の素質の素晴らしさに、密かに目をつけていたのだ。

 剣の素質を見込まれた勝五郎は、まず周助の実家の島崎家に養子に入り島崎勝太と名乗り、後に正式に近藤家と養子縁組し島崎勇、そして後の近藤勇を名乗った。1861年(万延2年)、府中六所宮にて天然理心流剣術宗家四代目襲名披露の野試合を行い、晴れて流派の一門の宗家を継ぎ、その重責を担うことになった。

 江戸幕府は1863年(文久3年)、清河八郎の献策を容れ、第十四代将軍家茂の上洛の警護をする浪士組織「浪士組」への参加者を募った。このとき近藤勇は土方歳三、沖田総司、山南敬助、井上源三郎、藤堂平助ら試衛館のメンバーを伴って、これに参加することを決め上洛した。朝廷に建白書を提出し、浪士組の江戸帰還を提案した清河に、異議を唱えた近藤や水戸郷士の芹沢鴨ら24人は京に残留。京都守護職・会津藩主松平容保に嘆願書を提出し、京都守護職配下で「壬生浪士組」と名乗り、活動を開始した。後の新選組の原点だ。

 その後、近藤派、芹沢派の二派閥体制となった浪士組だが、「八月十八日の政変」(1863年)が起こり、その警護にあたった浪士組の働きぶりが認められて、武家伝奏により「新選組(新撰組)」の隊名を下賜された。その後、芹沢鴨の一派が暗殺されると、近藤勇主導の新体制が構築された。芹沢鴨一派の暗殺事件では、近藤が直接手を下すというより、近藤の意を受けた副長の土方以下が指揮し、実行部隊となったとみられる。この後、新選組は近藤を局長として好感しない隊士には“血の粛清”が繰り返し行われ、結束を強固なものとしていった。そして京では池田屋事件をはじめ、西南雄藩藩士の勤皇志士たちの倒幕的な活動に対する取り締まり役として、「新選組」は“勇名”を馳せ、怖れられた。

 負傷療養中の近藤に代わって副長の土方歳三が率いて戦った、「鳥羽・伏見の戦い」で敗れた新選組は、幕府軍艦で江戸へ戻った。幕府の命を受け、大久保剛と改名した近藤は、甲陽鎮撫隊として隊を再編し、甲府へ出陣した。だが、甲州勝沼の戦いで新政府軍に敗れて敗走。その際、意見の対立から永倉新八、原田左之助らが離別した。

その後、近藤は大久保大和と再度名を改め、旧幕府歩兵らを五兵衛新田(現在の東京都足立区綾瀬四丁目)で募集し、下総国流山(現在の千葉県流山市)に屯集するが、香川敬三率いる新政府軍に包囲され、越谷(現在の埼玉県越谷市)の新政府軍の本営に出頭する。しかし、大久保を近藤と知る者が新政府軍側におり、そのため総督府が置かれた板橋宿まで連行され捕縛された。その後、土佐藩と薩摩藩との間で、近藤の処遇をめぐり対立が生じたが、結局、板橋刑場(現在の東京都板橋区板橋および北区滝野川付近)で斬首された。あっけない死だった。

近藤とは立場が違うが、各地の戊辰戦争を戦い抜き、幕臣として榎本武揚らと函館・五稜郭まで粘り強く転戦した土方歳三の生きざまとはっきり異なる。農民の出ながら、武士としての階段を昇り、一定の役職に就いた者と、そうでなかった者との違いなのか、死に臨んで近藤にはしたたかさより、数段、潔さが勝ったようだ。

(参考資料)司馬遼太郎「燃えよ剣」、奈良本辰也「幕末維新の志士読本」

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