藤原良房・・・人臣初の摂政となり、藤原北家全盛の礎を築く

 藤原良房は皇族以外の人臣として初めて摂政の座に就いた人物だ。それは、決して彼一人の力で成されたものではなく、父・藤原冬嗣が皇太弟時代からの嵯峨天皇に仕え信頼が厚かったこそ、着実に形成されていった閨閥を背景に、押し出されるように実現したように見える。しかし、その後の藤原氏北家の、「承和の変」「応天門の変」など、次々と政敵を陥れ排除していく事件を丹念に見ると、実態は見事に、そして計画的に仕組まれて行われたものだと分かる。良房は、そうした藤原北家全盛の礎を築き上げ、良房の子孫たちはその後、相次いで摂関(摂政・関白)となった。良房の生没年は804(延暦23)~872年(貞観14年)。

藤原良房は父・冬嗣の二男として生まれた。母・藤原美都子(みつこ)は838念に右大臣となった藤原三守(みもり)の姉で、嵯峨天皇の宮廷で尚侍(ないしのかみ)として天皇・皇后の篤い信任を受けていた。三守の妻・安子は皇后・橘嘉智子の姉だった。良房はこうした閨閥でもこの皇后と深く結び付いていた。子に明子(あきらけいこ)、養子に藤原基経がいる。

藤原北家の繁栄の基礎を築いたのは藤原冬嗣だ。冬嗣は平城上皇と嵯峨天皇が対立した「薬子の変」(810年)で嵯峨天皇のより深い信頼を得て蔵人頭という天皇の秘書官長ともいえる重要な職に任ぜられ、翌年参議に任じられ、国政に中枢に参画するようになった。のち大納言、右大臣を経て左大臣に就任。朝廷のトップの座に昇った。

良房は814年(弘仁5年)、嵯峨天皇の皇女・源潔姫(きよひめ)を降嫁された。天皇の娘が臣下に嫁するのは全く先例のないことだ。これは、多数の妻を擁し、50人くらいの子女をもうけ大家父長制をとった嵯峨上皇ならではのことともいえるが、上皇も藤原氏、とりわけ冬嗣の系統(北家)との関係を緊密にする狙いがあったのだ。桓武天皇は793年(延暦12年)に詔を下して、藤原氏に限って二世以下の王(女王)をめとることを許したのだが、冬嗣・良房の北家の流れは、ごく大家父長制のごく近くに、政治的には極めて有利な位置を占めたわけだ。
さらに、良房は妹の順子を仁明天皇の女御として権力を握った。順子と仁明天皇との間に道康親王が生まれると、良房に大きな野望が膨らむ。それが具体的な行動として現れるのが842年(承和9年)のことだ。それは嵯峨上皇が57歳で没した2日後、その火ぶたが切って落とされた。

良房は仁明天皇の生母、橘嘉智子(故嵯峨天皇の皇后=皇太后)と密議の上、伴健岑(とものこわみね)・橘逸勢(たちばなのはやなり)らのグループの何らかの思惑を、一大疑獄に仕上げてしまったのだ。仁明天皇は彼らを謀反人と断じ、その責任を恒貞親王にも問い、皇太子の地位を奪い去った。逸勢は、姓を非人と改められて伊豆国に流されたが、護送の途上で死んだ。健岑の配流先は隠岐国だった。東宮坊の官人らで流刑の憂き目に遭った者には、名族の伴氏(かつての大伴氏)、橘氏など、良房にとって朝廷でのライバルだった公卿が含まれ、60余人の多きに及んだ。これが、「承和の変」だ。

これによって良房は大納言の地位を占めた。その翌月、良房の妹、順子が仁明天皇との間にもうけた道康親王が皇太子に立てられた。親王16歳のときのことだ。

良房は次に、嵯峨天皇から降嫁された皇女、潔姫との間でもうけた明子を文徳天皇の女御とし、その間に生まれた惟仁(これひと)親王を9歳で即位させる。清和天皇だ。そして866年、遂に皇族以外で初の「摂政」となった。摂政は、天皇が幼少だったり、女帝の場合に「政を摂る」こと、あるいはその役職を指すが、それまでは聖徳太子、中大兄皇子のように皇族が就任するのが通例だった。そんな、本来手の届かないはずの摂政に良房は就任したのだ。そして「摂政」職はその後、良房の養子・基経に引き継がれていく。

(参考資料)北山茂夫「日本の歴史 平安京」

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