藤原純友・・・京での貴族社会から脱落し、開き直って官位を持つ海賊に

 藤原純友は平安時代中期、朝廷に対し海賊の頭領として西国で反乱を起こし、同時期に関東で平将門が起こした反乱と合わせ呼称される「承平・天慶の乱」<935(承平5)~941年(天慶4年)>の首謀者として知られる。純友は将門のように神や英雄として崇められることも少ない。また、純友に関する伝説や史料は乏しい。純友は将門を語るうえで無視できない西国の「敗者」なのだ。純友の生年はよく分からないが、893年(寛平5年)ごろと推察される。没年は941年(天慶4年)。

 藤原純友は右大弁藤原遠経の孫。大宰少弐藤原良範の三男。当時の朝廷の権力の中心を占めていた藤原北家に生まれている。曽祖父は陽成天皇の外祖父、贈太政大臣・藤原長良であり、大叔父には最初の関白・藤原基経がいる。しかし、ここに異説がある。純友は伊予の豪族高橋家の生まれで、藤原良範が伊予守となっていたと思われることから、その縁で良範の養子になったというものだ。いずれにしても、近い一族に高位の有力者がいたことは間違いない。

 ところが、純友の人生を狂わせることが起こる。それは父が若くして死んでしまったのだ。そのため、様々な人脈の伝手で可能であったろう仕官の“芽”が摘まれてしまったわけだ。都での出世が望めなくなった純友は、地方官となった。当初は父の従兄弟の伊予守藤原元名に従って「伊予掾」として、瀬戸内に跋扈する海賊を鎮圧する側にあった。「掾」は地方官として三番目の官で、伊予は上国だから従七位上相当官だ。しかし、元名帰任後も帰京せず、伊予国(現在の愛媛県)に土着した。

 ところで、純友が活躍したのは瀬戸内海だが、このころの瀬戸内海沿岸や無数の島々はどんな状態になっていたのか。瀬戸内海に海賊が横行していたことは、紀貫之の『土佐日記』の記述でよく分かる。彼は土佐守の任期がきて帰京するのに、絶えず海賊襲来の噂に怯えつつ航行している。貫之が土佐から帰京した934年(承平4年)末から935年(承平5年)初めのことだ。『三代実録』にも、海賊が跳梁跋扈し、一向にやまない状況を嘆き、播磨・備前・備中・備後・安芸・周防・長門・紀伊・淡路・讃岐・伊予・土佐などの国々に海賊を追捕するよう命じた-とある。

 さらに、その後、播磨・備中・備後などの国々から相次いで、海賊を捕らえたとの報告がきているが、賊勢は一向に衰えた様子はない。噂によると、これは各国の国司らが責任逃れに汲々として、自分の管轄内だけの平穏を保つため、捕らえて退治しようというのではなく、追い払うだけだからだ-と『三代実録』にある。朝廷が海賊対策に躍起になっているのに、沿岸諸国の国司らが責任逃れだけのいいかげんなことをしていることがよく分かる。

 さて、京での出世の見込みがないと判断し土着した純友は、完全に開き直り、立場を180度変えてしまった。海賊を鎮圧する側ではなく、海賊そのものになったのだ。推定42歳ころのことだ。従七位・伊予掾の官位は盗賊の中では異色で、彼はまもなく頭角を現し、936年(承平6年)ころまでには海賊の頭領となった。伊予の日振島(現在の愛媛県宇和島市)を根城として1000艘以上の船を操って周辺の海域を荒らし、やがて瀬戸内海全域に勢力を広げた。

そして、一大勢力となった彼は攻勢に出る。朝廷に対し叛乱を起こしたのだ。当初は各地で官軍を撃破し優勢だったが、次第に劣勢となり追い詰められ、941年(天慶4年)、藤原国春に敗れ、九州大宰府に敗走した。なおも追討軍の小野好古らの追撃を受け、その後、伊予・日振島に脱出するが、伊予国警固使の橘遠保(たちばなのとおやす)の手で逮捕された。遠保は純友を京に護送するつもりでその身を禁固したが、獄中で死亡した。その死因は不明だが、自害かも知れない。

 純友らはなぜ叛乱を起こしたのか?純友らの武装勢力は、純友と同様、元は海賊鎮圧にあたった者たちで、鎮圧後も治安維持のため土着させられていた、武芸に巧みな中級官人層だ。とくに親分株の者は氏素姓のある連中だった。彼らは親の世代の早世などによって、保持する位階の上昇の機会を逸して京の貴族社会から脱落し、武功の勲功認定によって失地回復を図っていた者たちだった。しかし、彼らは自らの勲功がより高位の受領クラスの下級貴族に横取りされたり、それどころか受領として赴任する彼らの搾取の対象となったりしたことで、任国の受領支配に不満を募らせていったのだ。こうしてみると、この叛乱は律令国家の腐朽と弱体を白日の下に晒したものだった。

(参考資料)海音寺潮五郎「悪人列伝」、北山茂夫「日本の歴史・平安京」

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