犬養毅・・・偶然が重なり首相になるが、軍部に暗殺された高潔の士

 犬養毅といえば「五・一五事件」で軍部に暗殺された総理大臣として記憶されている人物だ。だが彼自身、高潔にして毒舌の士で、この毒舌が様々な政敵をつくったが、それは決して政治家の頂点を目指すためではなかった。私生活では全く無欲の人で、細かいことには無頓着だった。そんな彼が総理大臣になったのは、いくつかの偶然が重なったのだ。犬養の生没年は1855(安政2)~1932年(昭和7年)。

 犬養毅は備中国賀陽郡庭瀬村(現在の岡山市北区川入)に大庄屋、犬飼源左衛門の次男として生まれた(後に犬養と改姓)。通称は仙次郎。号は木堂。慶応義塾在学中に郵便報知新聞(後の報知新聞)の記者として西南戦争に従軍した。
犬養は帰ってからの学費は、卒業まで社から毎月10円ずつ出してもらうという条件で、学校を休学して現地に赴いた。

彼が現地に着いたとき、ちょうど田原坂の激戦中だった。犬養の書いたルポルタージュは「戦地直報」というタイトルに「犬養毅」という署名入りで紙面を飾った。これは、鹿児島・城山が陥落するまで前後百数回連載されたが、何といっても実際に目撃した実況を書いたものだけに、非常に精彩があって大いに読者の歓迎するところとなった。

1890年(明治23年)の第一回衆議院議員総選挙で当選し、以後42年間で18回連続当選という、尾崎行雄に次ぐ記録をつくった。後に尾崎行雄とともに「憲政の神様」と呼ばれた。
 冒頭に述べた犬養首相誕生にあたって重なった偶然をみてみよう。犬養は1925年(大正14年)、自ら率いる「革新倶楽部」が選挙のたびに議席を減らすので、「立憲政友会」と合同した責任を取って政界を引退した。ところが、犬養の地元岡山の選挙民はこれに納得しない。そこで犬養の了承を得ないで、彼の引退に伴う補欠選挙で犬養自身を当選させてしまった。さらに、合同した立憲政友会の党首、田中義一総裁が急死するという偶然が重なった。

 立憲政友会は田中の跡目を巡って鈴木喜三郎と床次竹二郎が激しく争い、党分裂の恐れが出た。そこで、党内の融和派が犬養を担ぎ出しに動き、嫌がる犬養を強引に説得したのだ。その結果、1929年(昭和4年)、犬養は大政党・立憲政友会の総裁に選ばれてしまった。
 偶然はまだ続く。対立する民政党の瓦解だった。まず濱口雄幸総理が東京駅でテロリストに撃たれ、それがもとで退陣。後を継いだ第二次若槻禮次郎内閣も、1931年(昭和6年)勃発した満州事変を巡って閣内不統一に陥り、総辞職した。このころは現代の、昭和から平成にかけて50数年もの間、閣内不一致に陥ろうと、党内対立が起ころうとなりふりかまわず、党首をすげかえ政権をたらいまわししてきた自民党政治とは全く違う、かなり民主的な政治が行われていたのだ。

このころは、内閣が総辞職あるいは閣内が行き詰まって政権を投げ出したときは、野党第一党に政権を譲るという「憲政の常道」のルールが確立されていた。しかも、元老・西園寺公望は犬養が満州事変を中華民国との話し合いで解決したいとの意欲を持っていたことを評価して、昭和天皇に野党の立憲政友会の犬養を推薦したのだ。きちんとしたルールがあり、それを運用する人物たちがいた時代だ。このとき、犬養は数え年で77歳。確かに高齢ながら、こうして無欲で高潔の士、第29代犬養毅内閣総理大臣が誕生したのだ。

 しかし、犬養がその座にあったのはわずか5カ月間だった。1932年(昭和7年)5月15日、総理官邸で海軍の青年将校と陸軍の士官候補生の一団に襲われ、暗殺されたからだ。犬養の無念の死だった
「五・一五事件」だ。犬養の死は大きな後遺症を残し、昭和史の分水嶺となった。五・一五事件の犯人たちは軍法会議にかけられたが、現職の内閣総理大臣を殺害したのに、なぜか極めて軽い処罰で済まされた。死刑が全く適用されず、数年後に全員が恩赦で釈放されるという軽い刑で処理されたのだ。このことが、4年後に起こった大掛かりな、軍部が引き起こした事件「二・二六事件」の遠因になったとみられる。

(参考資料)三好徹「日本宰相伝 官邸に死す」、小島直記「福沢山脈」

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