淀屋常安 全国一の豪商も子孫の驕りが招いた“闕所”で消滅

淀屋常安 全国一の豪商も子孫の驕りが招いた“闕所”で消滅
 武家社会、商人にとって何よりも恐ろしいのは“闕所(けっしょ)”だった。商人が闕所になると、資財はすべて没収され、家屋敷も召し上げられて、それこそ裸になって住居を追われなくてはならない。江戸時代前期の浪花商人の代表が淀屋であり、その闕所になった豪商の筆頭が淀屋だ。淀屋といえば世に名高いのが淀屋辰五郎だが、正確にいえば淀屋の家系図に辰五郎という人物はない。したがって、一般的に通り名となっている辰五郎は俗称ということになる。
 現在、大阪市役所のある御堂筋の少し南に淀屋橋が架かっているが、これこそ淀屋を記念したもので、常安町の地名もまた淀屋常安からきている。このように町名や橋の名になって淀屋の名が残っているのは、現在の中之島をつくり、大阪の中心部を砂州から陸地として開墾したのがこの淀屋だからだ。
淀屋の屋敷は表は北浜に、裏は梶木町(現在の北浜四丁目)に及び、東は心斎橋、西は御堂筋に至るという広大な地域を占めていて、敷地にしておよそ2万坪を所有していたという。そこに百間四方の店を構えていたというから、すごいスケールだ。 
 淀屋のルーツは山城国で岡本姓を名乗る武士の出身だった。豊臣秀吉の世になって大坂に移り住んだ。十三人町(大川町)に居を定めた常安は、淀屋と称して材木を商っていた。大坂冬の陣に際して、時代の趨勢を読む先見の明があったからだろうか、常安は関東方に味方、積極的に協力した。その褒美として徳川家康は、常安に八幡の山林地三百石と朱印を与えた。そのうえ帯刀を許され、干鰯(ほしか)の運上銀をもらえることになった。
また彼は大坂冬夏の陣で、各所に散乱している死体を片付けて鎧、兜、刀剣、馬具などの処分を任せてもらった。この戦場整理で、彼は巨富をつかんだ。徳川方に賭けた彼の狙いは見事に的中して、多くの権益と利益を得たばかりか、戦後の大坂で大きな発言権を持った。彼は全国の標準になるような米相場を建てたいと願い出て許された。功労者淀屋常安の願い出でなかったら、あるいは許されなかったかもしれない。こうして諸国から集まってくる米は、常安の邸で品質、数量に従って相場を建てられることになった。それはいわば全国の米を一手に握ったようなもので、彼は莫大な利益を得た。
彼には三男二女があった。淀屋の系図でみると、長女が婿養子をもらっている。この養子を長男としていたので、実子の三郎右衛門が次男ということになっている。この言堂三郎右衛門が古庵と号し、淀屋橋屋の祖となった。ただ代々、三郎右衛門と称し、古庵と号したといわれ、まぎらわしい。二代目は父が築いた財産と稼業を基礎として、さらに富を増やしていった。元和8年に魚市場、慶安4年に青物市場をそれぞれ支配下に治め、三大市場を一手に握った。こうして二代目は日本一の富商となった。
二代目には実子がなく、そこで弟五郎右衛門の長男、箇斎を養嗣子として迎え、三代目三郎右衛門を名乗り、淀屋の身代と事業を継いだ。ただ、この三代目にはさしたる業績は伝わっていない。箇斎の子、重当が四代目だ。ここまでは父祖の業務と身代を何とか無事に守ってきたが、重当の子の五代目三郎右衛門の時に、あまりに驕奢(きょうしゃ)が過ぎるというので、お上のお咎めを受けて遂に闕所になってしまった。
それは宝永元年(1704)2月、財政に行き詰まった幕府が発した質素倹約令に反するというものだった。初代常安の時代は、徳川将軍とあんなに親密だったのに、五代目ともなると全く疎遠になっていた。と同時に淀屋が大坂商人本来の律義さと節約の精神を忘れ、あたかも大名にでもなったかのように驕り高ぶっていたことに天罰が下されたともいえよう。
初代なら集めた富の魅力を、一人でこっそり楽しんだだけで、世間に見せびらかすようなバカな真似はしなかっただろう。淀屋の闕所によって淀屋からカネを借りていた諸大名は借金棒引きとなり、助かったことはいうまでもない。また、この結果、淀屋の莫大な財産はこれを没収した幕府の所有物となった。だから、淀屋の闕所はそれが狙いだったともいえる。

(参考資料)邦光史郎「日本の三大商人」

 

 

 

 

前に戻る