松平春嶽・・・開明的藩政指導行うが、幕政参画後は“労”報われず

 御家門筆頭の国持大名として家格が高かった越前松平家の養子となり、第十六代越前福井藩主となった松平慶永(のちの春嶽)は、藩政改革に着手、積極的な人材登用、殖産興業・富国強兵による藩財政の立て直しを推進した。だが将軍継嗣問題で井伊直弼らと激しく対立し、隠居・謹慎処分を受けることになる。そこで彼は家督を養子茂昭に譲り、一時は5年にも及ぶ謹慎生活を送った。

だが、春嶽は井伊大老亡き後、見事に復活、幕府の要職に復帰する。幕府から政事総裁職を拝命、幕政に参画したのだ。そして、・参勤交代制の緩和・洋式軍制の採用・幕府職制の改正・京都守護職の新設-などを実施。第十四代将軍家茂による229年ぶりという将軍上洛を実現させた。

ただ、幕末の開国と攘夷、倒幕派勢力の台頭と幕府安泰・朝廷尊崇の理念の狭間で、春嶽の行動自体が振り子のように揺れ動き、そのために当事者たちに絶対の信頼を得られなかったためか、調停役としての春嶽の多くの“労”は報われなかった。

 松平慶永は徳川御三卿、田安家三代斉匡の八男として生まれた。母は閑院宮家木村某の娘礼井。幼名は錦之丞。徳川第十二代将軍家慶の従弟。天保9年、11歳のとき将軍の命で越前福井藩32万石の藩主・松平斉善(なりさわ)の養子となり、斉善の病没後を継承、藩主となった。将軍家慶の一字を賜り慶永、元服して越前守を称したが、隠居後、生涯愛用した雅号「春嶽(しゅんがく)」の方が有名だ。春嶽の生没年は1828(文政11)~1880年(明治23年)。

 福井松平家の藩祖・秀康は徳川家康の次男で、嫡男信康早世後、三男秀忠の唯一の兄で、豊臣秀吉の名をもらって結城家に養子に出されていなければ、家康の後継男子としては最年長だった立場だ。慶永は16歳で初入国し、90万両の負債を抱えた福井藩財政立て直しのため、近侍御用役に股肱の臣、中根雪江をはじめ、村田万寿、若手の逸材、橋本左内、三岡三四郎(後の由利公正)らを登用。また、「国是三論」を著した横井小楠を熊本から顧問として招き、洋式兵制の導入や種痘館、藩校明道館を創設。殖産興業策を推進して開明的藩政指導を行った。

 春嶽は幕末、幕政に参画してからは島津久光、山内容堂、伊達宗城らとともに有力賢候の一人として一目置かれたが、労多くあまり成果は挙げられなかった。彼の持論でもあった政権返上は、土佐の懸案を容れた大政奉還奏上によって実現、次いで王政復古の大号令が発せられる。ここで十五代将軍徳川慶喜の「辞官納地」が挙げられると、春嶽は徳川家のために抗議、慶喜の朝政参加を図ろうと努めたが、鳥羽伏見の戦いが勃発。遂に慶喜は朝敵となって政治復権の道は断たれた。

 春嶽は維新後、明治新政府側において徳川家の救済に尽力。内国事務総督、議定となり、明治2年、民部卿、大蔵卿を兼ね、大学別当兼侍続となった。だが、明治3年、一切の官職を辞して以後、文筆生活に入った。「逸事史輔」などの幕末維新史の記録、武家風俗史上、貴重な著述類を執筆。また伊達宗城らと「徳川礼典録」を編纂、注目すべき業績を残した。

(参考資料)尾崎護「経綸のとき」、童門冬二「小説 横井小楠」

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