最上徳内・・・シーボルトなど同時代の学者・知識人から評価うけた北方探険家

 最上徳内は蝦夷地探検などで知られる、江戸時代後期の北方探検家だ。徳内の科学的測定法や、彼の説を最も高く評価して引用したのは、シーボルトだ。とくに、徳内が製作した蝦夷地(北海道・千島)や樺太の地図を見て、準尺技術の高さや、日本における天文学や陸地測量術が意外に進んでいることを知った。徳内は市井の知名人ではなかった。しかし、彼と同時代の質の高い学者や知識人からは尊敬される多くの事績を残した人物だった。徳内の生没年は1754(宝暦4)~1836年(天保7年)。

 最上徳内は出羽国の村山郡(現在の山形県村山市)の農家で、二男三女の長男として生まれた。父は間兵衛。彼が生まれ育った楯岡村は、山形盆地の北東にあり甑岳(こしきだけ)の西麓にある。戦国時代に最上氏の支流がここに城を築いて拠った。最上氏は江戸時代初期に廃絶した。徳内は農民の出だから苗字を持たなかったが、後年、蝦夷地にわたるときに“最上”を称した。最上氏の血をうけていたからではなく、おそらく故郷をしのぶためだったろう。

 徳内の生家は、わずかに耕作をするかたわら、煙草切りをして暮らしを立てていた。煙草切りとは、葉を刻んで毛のような製品にする仕事だ。徳内は巧みにそれをやった。『蝦夷草紙』の末尾の略伝によると、徳内は16歳から近くの谷内村のたばこ屋に奉公し、そのかたわら、近所の医師について漢学を習った。たばこ屋ではよく勤め、主人から信用されて、津軽から仙台、南部までたばこを売り歩いた。決まった師があったわけではなかったが、柔術と剣術も会得した。

 徳内は長男として両親を助けねばならなかったが、学問修行のため江戸に出ることを願っていた。そして27歳のとき、やっとその機会が巡ってきた。1781年(天明元年)、父の一周忌が明けると、江戸に出た。弟妹も成長して、後顧の憂いがなくなったのだ。27歳からの就学は当時としてはとくに晩学だった。金があるわけではなかった。

江戸に出てから徳内は、一所に落ち着かず、目まぐるしく奉公先を変えた。一時期、医者になろうと思い、幕府の医官、山田宗俊の下僕になった。だが、2年足らずでそこを出た。次は数学を志した。湯島の永井正峯が主宰する数学塾に入塾した。徳内は数学に天稟があり、ほどなく師の永井正峯を凌いだ。そこで、師に同行して長崎への算術修行も行っている。これと相前後してのことと思われるが、1784年(天明4年)、本多利明の「音羽塾」に入門し、天文学測量、そして海外事情にも明るい本多の経済論などを学んでいる。

 こうして学問を積んだ徳内は、最初は幕府の蝦夷地検分使の一員として蝦夷地に渡った。1791年には普請下役の武士となり、1798年には幕臣、近藤重蔵らと初めてエトロフ島に上陸し、「大日本恵登呂府」の標柱を建てている。徳内は1785~1810年まで9回にわたり、蝦夷地や北方領土の探検にあたった。

 いずれにしても、どのような経緯があってのことか、詳細は分からない。だが、厳然としてあった江戸時代の身分制社会で、徳内は蝦夷地をはじめとする北方探検の専門家として、幕府に取り立てられて武士(=扱い、待遇)になるという、稀有な出世を果たした人物とみられる。
 シーボルトは最上徳内を「18世紀における最も傑出した日本の探検家」として、最大級の言葉で誉め称えている。

(参考資料)司馬遼太郎「街道をゆく37」、司馬遼太郎「菜の花の沖」

前に戻る