山城屋和助・・・維新後、名を変え陸軍省の長州人脈に暗躍した政商

 山城屋和助は明治維新後、名を変え、陸軍省の長州人脈に深く入り込み、軍需品納入で大儲けするようになってからの政商的商人としての名前だ。彼の本名は野村三千三(みちぞう)。後年、陸軍省から預かった公金で生糸相場に失敗。預かり金65万円を返済できず、陸軍省内で割腹自殺した。これが、彼が引き起こしたと一般的にいわれる山城屋事件だが、この事件の全貌については、彼の経歴・活動とともに謎に包まれた部分が多い。生没年は1837(天保8)~1872年(明治5年)。

 野村三千三は周防国(山口県)玖珂(くが)郡山城荘(やましろのしょう)本郷村で、医師、野村信高(玄達)の四男として生まれた。8~9歳のとき母、父を相次いで失った。1851年(嘉永4年)ごろ萩の浄土宗の寺、竜昌院に預けられ、その後出家、僧侶となって諸国を遍歴した。

 文久年間(1861~1864年)に帰郷。1863年(文久3年)に還俗して長州藩士高杉晋作が組織した「奇兵隊」に入隊。下関砲撃事件に参加。戊辰戦争には山県有朋の部下として参戦、越後口へ出征し小隊長として活躍、密偵としても行動していたといわれる。ここまでが野村三千三としての人生だ。
 明治維新後、野村はどのような経緯があったのか定かではないが、山城屋和助と名を変え、志を転じて商人となる。横浜に店舗を構えて、幕末、「奇兵隊」入隊以降、親交のある山県有朋を介して長州人脈と結びつく。この人脈を活かした、軍需品納入の商売は大繁盛した。陸軍省からの預かり金を基礎に生糸の輸出貿易に着手、陸軍の御用商人となった。さらには諸省の用達となって、明治初期の政商の代表格として巨富を得たのだ。

 政商として大いに自信をつけた山城屋和助の欲望には、もう際限がなくなっていた。山城屋は1871年(明治4年)、貿易のことでアメリカやフランスに行き、翌年帰朝した。1872年(明治5年)、山城屋は山県ら長州系の官僚に陸軍省公金15万・を借り、生糸相場に手を出す。長州系軍人官吏らは貸し付けの見返りとして山城屋から多額の献金を受けたとされている。

 しかし、山城屋は不運にも、普仏戦争勃発の影響によるヨーロッパでの生糸価格の暴落で大きな損失を出してしまう。そこで山城屋は陸軍省からさらに公金を借り出してフランス商人と直接商売をしようとしてフランスに渡った。ところが、商売そっちのけで豪遊しているという噂が現地で広まり、これを不審に思った駐仏公使、鮫島尚信が日本の外務省に報告。これにより、山城屋への総額65万円に上る公金貸し付けが発覚したのだ。世にいう山城屋事件だ。

 陸軍省では当時、長州閥が主導権を握っていた。これを好機と捉えた他藩出身官僚が陸軍長州閥を糾弾する。山城屋と最も緊密だった山県有朋は追い詰められ、山城屋を日本に呼び戻す。しかし、山城屋にはもはや借りた公金を返済する能力がないことだけが明らかになっただけだった。その結果、山城屋と親しかった長州閥官僚は手のひらを返したように山城屋との関係を絶った。

窮地に立たされた山城屋は、手紙や関係書類を処分した後、陸軍省に赴き、山県への面会を申し入れるが拒絶される。面会を諦めた山城屋は万策尽きたと判断し、陸軍省内部の一室、教官詰所で割腹自殺し、波乱に富んだ人生を終えた。1872年(明治5年)のことだ。この自殺により山城屋事件の真相は究明されないまま終わった。ただ山県への疑惑は強く、司法卿・江藤新平の厳しい糾明もあって非難が収まらず、同年遂に山県は陸軍大輔をも辞任して責任を取った。明治初期の軍部の腐敗ぶりを反映した汚職事件だ。

(参考資料)井上清「日本の歴史 明治維新」

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