児玉源太郎・・・格下げの参謀次長を引き受け、対露戦争に賭けた名参謀

 児玉源太郎は嘉永5年(1852)2月、周防徳山藩廻役80石取りの児玉半九郎の長男として生まれた。徳山藩は萩の毛利本家の支藩で、そこでの80石という禄高は中級士族だ。幼名は百合若、のちに健、元服し源太郎と改名した。

しかし、そこまでの児玉は辛酸をなめ尽した。父親の半九郎が藩の重役に憎まれて謹慎を言い渡され、児玉が5歳の時、病死した。児玉家は半九郎の死後2年経ってから長女ヒサに養子巌之丞を迎え、名を次郎彦と改名して家督を継がせた。次郎彦は藩の助教を務めたが、元治元年(1864)京都・池田屋の変、禁門の変などを経て、尊攘派だった次郎彦は自宅前で保守派に斬殺された。児玉12歳の時のことだ。この後、児玉家は藩からわずか1人半の扶持しか与えられない身となり一家5人が親戚の家を転々とする、食うや食わずの極貧生活を送るはめになる。ただ、このローティーン時代の苦難が児玉の精神形成に大きく影響したことは間違いない。

 慶応元年(1865)7月、徳山藩の政情が一変した。本藩で高杉晋作が決起し佐幕派が一掃され、支藩の俗論党が退陣。藩政の主導権が次郎彦の属していた尊攘派の手に移り、13歳の児玉が次郎彦の跡目相続人として中小姓に取り立てられ、新知25石を賜ることになったのだ。異例の人事だった。

 児玉は明治4年8月に少尉、9月に中尉となり、熊本鎮台創設のとき大尉になった。すごいスピード昇進だが、もちろん長州出身だったからだ。以後、児玉は順調に出世した。

 明治16年、児玉は大佐に昇進し、参謀本部に入った。同18年、陸軍はドイツ陸軍からメッケル少佐を招き、近代的な戦略戦術はもとより、陸軍の軍制に至るまで教えを受けた。児玉は明治19年に陸軍大学の幹事になってから、メッケルの講義を聴き、メッケルとともに参謀旅行に同道した。参謀旅行とは机上の講義ばかりでは実戦の役に立たないと考えるメッケルが発案したもので、例えば関ケ原へ行き、東西両軍の配置などを想定し、実戦に即して、戦術を研究するやり方だ。

メッケルは、近代戦は新兵器や火力の優劣などの科学的要因と兵站能力が大きくモノをいうことは確かだが、その他に兵員の精神力という計算できないものが重要であり、参謀の想像力も精神力と同様、大切だと説いた。仮に前方に敵軍の布陣している山があるとする。参謀には目に見えない山の背後がどういう地形か、それを想像できる能力が必要だというのだ。参謀旅行に同道した陸軍大学の学生が残した記録によると、メッケルは「将来、日本の陸軍は陸軍の児玉か児玉の陸軍かというようになろう」というほどに、児玉の才能を高く評価していたという。

 児玉は後の旅順攻略戦の時、メッケルのこの時の教えを見事に実践する。彼は満州軍総参謀長として、強行しては失敗を重ね5万9000余名の死傷者を出した、乃木希典が軍司令官を務める第三軍を見るべくやってきた。乃木の司令部は最前線から遠かった。ロシア軍の砲弾の絶対に届かない安全なところにあった。そして、参謀たちは司令部を一歩も出ようとせず、最前線の状況を知ろうともしないで、死の突撃で部下を死なせたくない大隊長や中隊長が、強攻策に再考を求めると、「命が惜しいのか」と臆病者扱いしていた。この参謀たちは陸軍大学を優秀な成績で卒業したエリートだったが、あくまでも机上の作戦家でしかなかったのだ。

 日露戦争が始まったとき、メッケルはすでにドイツに帰国していたが、彼はクロパトキンがロシア軍の最高指揮官になったのを知ると「児玉が勝つ」と予言した。クロパトキンは欧州各国にも名将として知られていたが、児玉は知られていなかった。しかし、児玉は下級兵士の心が分かるリーダーであり、クロパトキンはそれが分からないリーダーであることをメッケルは知っていた。メッケルにしてみれば、児玉が勝って当たり前なのだった。

 明治38年、満州での陸戦を勝利に導いた児玉は、密かに日本に戻り伊藤博文らの重臣や桂太郎首相、小村寿太郎外相らに、講和交渉を開始して一日も早くまとめるように忠告した。これは満州軍総参謀長の権限外の行為だが、日本軍がこれ以上の大規模な戦闘に耐えられないことを承知していたからだ。児玉としては、陸軍のことだけを考えればいい参謀から脱却し、いわば日本の運命を考える参謀にならざるを得なかったのだ。しかし彼は、日本国の名参謀になる前に、1年後の明治39年7月に脳出血で急死した。54歳だった。その後、神奈川県江の島に児玉神社が有志によって建立された。

(参考資料)古川薫「天辺の椅子」、三好徹「明治に名参謀ありて」、司馬遼太郎「この国のかたち 一」、小島直記「志に生きた先師たち」

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