『I f 』⑬「藤原不比等の出自が天智帝と無関係だったら」

『I f 』⑬「藤原不比等の出自が天智帝と無関係だったら」
 藤原不比等は持統女帝の信任のもとで①「養老律令」の制定②平城京遷都
③『日本書紀』の編纂など様々な優れた功績を残した人物です。そして、前
記の3つの事業に先立つ「大宝律令」の制定、藤原京遷都、『古事記』の編纂
にも最重要人物として関わっています。それは、不比等が父・藤原鎌足が信
頼の証として天智天皇からもらった二人の妻のどちらかに産ませた子か、も
しくは天智天皇の子ではないか-との謎の部分があるため、持統女帝は自分
の異母弟かも知れない不比等を自分の側近にし、重用した結果だとみられる
のです。

藤原不比等は本来出世しにくいはずの近江朝に縁の深い人物
 不比等は天智天皇をバックアップした藤原鎌足の遺児ですから、近江朝に
縁の深い人物です。また、不比等が育てられた山科の田辺史大隅(たなべの
ふひとおおすみ)と関係ある田辺史小隅(おすみ)は、「壬申の乱」のとき
の近江朝の将軍で、天武天皇が最も憎んだ中臣連金(なかとみのむらじかね)
の直系の配下の人物なのです。ですから天武天皇はもちろん、持統天皇の御
世も普通なら、不比等はなかなか出世できないはずです。

目を見張るスピード出世は、謎に包まれた彼の出自に起因
 ところが、689年(持統3年)、『日本書紀』に初めて現れるのです。不
比等31歳のときのことです。竹田王(たけだのきみ)ら8人とともに判事に
任じられ、直広肆(じきこうし)となったと記されています。判事というの
は刑部省の所属で、律を解釈する実務家です。突然変異のように実務官僚の
列に加えられ、以後、目を見張るスピードでのし上がっていくのです。
 不比等の、この異例の出世ぶりの背景にあるのが、謎に包まれた彼の出自
です。父・鎌足は654年(白雉5年)、天智天皇から紫冠を授けられていま
す。と同時にこのとき、天智天皇の二人の妻をもらって、自分の妻にしてい
ます。一人は采女(うねめ)の安見児(やすみこ)で、もう一人は鏡女王
(かがみのおおきみ)です。鏡女王は額田王の姉という説と、舒明天皇の皇
女という説がある女性です。

不比等は天智天皇の子の可能性 持統天皇には異母弟?
 今日的にみれば、少し異様なことといえるのでしょうが、当時、非常に親
しい王と臣下との間で、王が妊娠させた女性を臣下に渡すといったことが行
われていました。不比等は鎌足が紫冠を授けられた後に生まれた子ですから、
安見児か鏡女王の子供、つまり天智天皇の子でもある可能性があるわけです。
 天武天皇は天智天皇を憎んでいましたが、持統天皇は天智天皇が実の父で
すから、ひょっとしたら不比等は自分の異母弟かも知れないと考え、彼を自
分の側近にしたとも考えられるのです。

不比等と草壁皇子に連なる血脈とのつながりが権力の源泉
 不比等はまず、持統女帝の最愛の息子、草壁皇子(くさかべのみこ)に接
近していきます。彼は20代後半から30代にかけて、まだ無位だったにもかか
わらず、草壁皇子と非常に深い関係を持つようになります。草壁は死ぬとき、
有名な黒作懸佩刀(くろつくりかきはきのたち)を不比等に渡しています。
これはいま正倉院にあります。
不比等はそれを、持統女帝の孫、文武天皇に渡しています。そして若くし
て文武天皇が亡くなるとき、また不比等に返しており、不比等はそれを今
度は聖武天皇に渡しているのです。これは有名な説話で、史実です。それ
ぐらいに不比等と草壁および草壁に連なる血脈はつながっていたわけです。
無位だった不比等が、どうして草壁皇子に近づけたのか。その仲介者は明
らかに持統女帝でした。
 こうして律令国家の影の制定者、藤原不比等は後の藤原“摂関”政治体制
の礎をつくっていったのです。

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